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必見! ガレル『パリ、恋人たちの影』(下)

ナレーション、編集、BGMの妙など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

<声/語り>の効果

『パリ、恋人たちの影』『パリ、恋人たちの影』公式サイトより
 『パリ、恋人たちの影』は、前衛趣味をまぬがれたそのシンプルな簡潔さの中にも、演出やカメラワーク上の巧みな技法が仕込まれている。

 たとえば前回触れた、エリザベットの視点からマノンと愛人の密会が撮られるカフェの場面。そこではエリザベットの目になったカメラが、カットなしに180度パンして向き合うマノンと男を写すが、こうしたエリザベットの視点/主観ショットによって、観客は彼女の内面に入りこみ、彼女にも感情移入する(簡単に見えて難しいカメラワークだ)。

 また人物の内面の表出という点では、監督の息子で俳優でもあるルイ・ガレルのナレーションが効いている。ひとまず3人称的なナレーター/語り手といえるルイの画面外の声は、客観的なシチュエーションの説明役ともなるが、それだけではない。あるときはピエールの心の中に入りこんで彼のモノローグ(独白)めいたつぶやきを代行し、またあるときはエリザベットに寄り添い彼女の思いを代弁する、いわば3人称と1人称の、あるいは主観と客観の中間のような<声>ともなる。

 人物の心の中をのぞきこむスリルを観客にもたらすと同時に、物語を効率よく進行させる役割を担う――過度に内省的ではない――<声/語り>だ。そしてこの効果的な手法は、まさしくNV(ヌーヴェルヴァーグ)の作家たちが好んで使ったものだ。

 とりわけフランソワ・トリュフォーのナレーションが名高いが、『パリ、恋人たちの影』の先を急ぐような抑揚を欠いた早口のナレーションは、間違いなくトリュフォー的な語りである(しかもガレルはトリュフォーを意識させぬほど、トリュフォーの影響を消化吸収している。トリュフォー映画のナレーション、独白については、2014/12/08の本欄「フランソワ・トリュフォー特集が到来!(13)――『恋愛日記』の卓抜な作劇・<声/語り>の仕掛けについて」参照)。

黒画面による場面転換の多用

 さらに場面転換のさいの、長めの黒画面の挿入(ブラックアウト)の多用にも目を奪われるが、本作の撮影を担当したのはレナート・ベルタ(1945~)。いうまでもなく、ゴダール『勝手に逃げろ/人生』、エリック・ロメール『満月の夜』、ダニエル・シュミット『ラ・パロマ』などなどの傑作を撮った名カメラマンである。その点でも本作は、ポストNVの(まさにNVを引き継ぐ)血統書付きの名品だ(ガレルはこれまでも、ラウル・クタール、ウィリアム・リュプチャンスキーという、早撮りを旨としたNVをカメラで支えた名手と組んでいる)。

 ともかく『パリ、恋人たちの影』が、わずか73分で密度の濃い恋愛劇を描き切っているのは、まったく驚きだ。そして、この映画における簡潔さと熱気の融合は、とりもなおさず、くだんの場面転換や、あるいはジャンプカットぎみのカット割り、すなわち時間省略/編集の妙と、一つひとつの映像にそれ自体の強度があることの融合なのだ(ベルタの手になる、白黒のシャープな対比や白黒が溶け合うような陰影にも息をのむ)。

 ちなみに黒画面による場面転換は、もう1本のガレルの傑作、『愛の残像』(2008)でも抜群の効果を上げている(19世紀フランスのロマン派作家、テオフィル・ゴーティエの小説「スピリット」をベースにしたこの幻想的な映画も、近々本欄で紹介する)。

 『パリ、恋人たちの影』の、見る者の感情を直撃するような、底ごもった抒情を放つ重低音のピアノやギターにもしびれるが、音楽担当はフランスのロック・バンド「テレフォヌ」の元メンバー、ジャン=ルイ・オベール(1954~)。まったくもってこの映画は、スタッフにも恵まれた幸福なフィルムである。

 なお、男女の情事の描写に終始するかに見える本作

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