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[書評]『銀漢亭こぼれ噺』

伊藤伊那男 著

松澤 隆 編集者

株も悲しみも星になり、やがて俳句になる  

 手練れの俳人による、回想録ふうの好エッセイが登場した。気の置けない小店でさっと出される品々のように、ありふれた素材のようで、口あたりが実によい。つまり、読み始めると止まらなくなる。

『銀漢亭こぼれ噺—そして京都』(伊藤伊那男 著 北辰社) 定価:本体1500円+税『銀漢亭こぼれ噺――そして京都』(伊藤伊那男 著 北辰社) 定価:本体1500円+税
 もし俳壇に関わりがあれば周知だろうが、著者は俳句結社「春耕」主宰だった皆川盤水の高弟。師・盤水は愛弟子に新結社創設の許しを与えたのち、7年前に旅立った。

 こう書くと、俳句どころか寸暇すらつくれず日々忙しいとお嘆きの方には、優雅な別世界と思われるかも知れない。だが、著者の半生は、野村證券社員、オリエント・リース(後にオリックス)社員、そして、某金融会社社長。その激務、いや激闘の中で俳句をつくり続けた。時代は、まさにバブル前夜から夕暮れどき。その景色の中にいた人である。

 前半は、青年期から時系列に綴られる。高度成長期、弾むような青春。80年代、株に狂奔する時代の證券マンの「手数料」稼ぎ。90年代、経営トップとしての浮き沈み。もうページを繰る手は止まない。特に金融業の裏話は、門外漢には驚きの連続だ。

 中盤は、親族の横顔。といっても、むりに見せられるスマホの画像ではない。養蚕で成功し艶っぽい旅日記を遺した祖父、「奇行の俳人」池上樵人(母の弟)など、まるで「オール讀物」「小説新潮」とかに載る好短編の一節だ。「叔父のようになるな」と諭した母親の実家が芦部信喜(国会論議で一般にも知れ渡った憲法学の泰斗)の一族というくだりも、興味深い。

 その地元、長野県駒ヶ根市ゆかりの井上井月にも、一章を割いている(既刊に『漂白の俳人 井上井月』<角川俳句ライブラリー>あり)。これは本書の元が、俳友の句誌への寄稿であることと関わりがある。だが、同郷人に筆が及んでも、歯の浮く賛辞や、衒学的な考証は皆無だ。井月の酒食への関心を、例句と共に楽しく伝える。著者は、実作者であることに矜持をもつのである。だから、章の結びにはほぼ自句が添えてあり、これが胸に響く。本文との付き方・離れ方が絶妙で、飄逸と滋味の交錯で唸らせるのだ。

 ところが、後半の章に至り、筆調は一変する。愛妻の発病、その死。前段まで、著者の微笑や苦笑に心地よく付き合ってきた読者は、誰しも息を呑むだろう。しかし著者は、俳人である。嗚咽も慟哭も、散文にはしない。すべて「十七音」に昇華され供される。

 <新日記余命三月の妻に買ふ>
 <凍蝶といふさながらに妻逝けり>

 いったい人は、なにゆえ俳句をつくるのだろうか。著者の場合、信州伊那谷の比較的恵まれた家に育ち、少年時代から詩文に関心が強く、文学部を志望した。だが、親たちの目が厳しく、慶應法学部へ進んだ。就職も、新聞社や出版社に惹かれつつ、証券会社を選んだ。ところが、バブル景気に遭遇し、数十億のカネとあまたの人を動かす仕事に携わったことで、あるいは、金融にまつわる成功と失敗を責任者として受けとめたことで、同時代の他の業種の従業員とは質の異なる喜怒哀楽に遭遇したのである。

 俳句を継続的につくるきっかけは、取引先(フジテレビ関連の不動産会社)の句会に顔を出したことに始まるが、独立して金融会社を経営した頃には、(本書では詳述していないけれど)俳壇で重きを成す名前になっていた。いわば、少年時代にふと点した炎を消さずに、ひそかに埋み火として保ち、湿らせず、費えさせず、歳月を経て《十七音の詩》を熾(おこ)す燃料とした。その灯火は、本書の至るところで、輝いている。

 しかも著者は今、小体な店の主人でもある。調理の達人が俳句に手を初める例は少なくない。だが、すでに俳壇で名を成した人が、本業から転じ、毎日生業として包丁を捌(さば)いているという例は、稀有なのではないか。店名は、本書と同じ。「天の川」を意味するこの名は処女句集に由来し、7月7日生まれに由来する(主宰結社名も)。

 副題に「京都」があるのは、野村時代最初の勤務地であり、妻となる女性ともこの地で出会ったからである。挿入されるコラムふうの短文に、古都への敬慕がのぞく。また、京の風景を含む、印象的な写真が多数載る。撮影はすべて、娘婿に当たる宮澤正明氏。五十路を超えた折り返し点で、店主として再び「誕生」した著者こそ、まさに《神保町の匠》である(店舗は交差点から近い)。

 名句は、宝石に似ている。途轍もない荷重に耐えた炭素原子のような一語一語の結晶で出来ている。時間と研磨が光を生む。元は鉱物、もっと昔は星である。本書には、星の記憶が煌いているといっていい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。