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[書評]『枕草子のたくらみ』

山本淳子 著

松澤 隆 編集者

相対評価と絶対評価の違い  

 じつに面白かった。暑い時分は、涼しい気分にさせてくれる古典を味わいたくなる。しかし、原文の精読はしんどい。そこで、優れたナビゲイターに導かれ、古典を垣間見たいと思って手に取った。読み進むうち暑さは忘れ、代わりに、熱い血潮がみなぎってくる、そんな本だ。

『枕草子のたくらみ——「春はあけぼの」に秘められた思い』(山本淳子 著 朝日選書) 定価:本体1500円+税『枕草子のたくらみ――「春はあけぼの」に秘められた思い』(山本淳子 著 朝日選書) 定価:本体1500円+税
 《たくらみ》とは挑発的な響きだが、要するに「いとめでたき」皇后定子を、後の世に伝える工夫と言っていい(「あけぼの」にたなびく瑞雲すら定子の暗喩らしい)。

 皇后の生前には自分に居場所を与えてくれた感謝を籠め、崩御後は鎮魂を籠めて、皇后とその後宮の素晴らしさを描いた「作品」が『枕草子』であり、定子を快く思わない権力者によって廃棄されないよう、題材と修辞に配慮した清少納言の意図を、著者は《たくらみ》と唱えるのである。

 「聡明な皇后と当意即妙の女房なんて常識でしょ? 今さら何?」と思う人もいるかも知れない。

 しかし著者は、第一線の研究者だ。既存のイメージの確認や増幅では終わらない。近年の研究成果を存分に活用しつつ、鍵となる原文の章段を(拍手したいほどの)達意の現代語訳を添えて示し、王朝の一隅で「をかし」が生まれる瞬間に、読者を立ち合わせる。

 また、同時代の男性たちの日記を手際よく引いて、際どい人間関係の糸を鮮やかに解いてみせる。多くの研究者の中には、作品の全体像の究明より、個別の事実確認に熱心な人もいるだろう。だが著者は、「一条朝の社会全体と、その中で一人一人の人間が抱いた思いとを、一貫して見つめ続けてきた」という自負をもつ。その結果、解読はスリリングで、解説は心を打つ。

 下級貴族ながら著名歌人(清原深養父、元輔)を父祖にもち、それゆえに、物怖じがちだった清少納言は、漢詩文の知識と機転で定子に認められた。定子自身、父は関白道隆ながら、母貴子は中級以下の高階家の出身。だが、その母の才を継承し、機知に富んだ応酬を好んだ。

 つまり、『枕草子』を彩り、作品を象徴する「をかし」のあれこれは、清少納言の独創ではない。主人が与え、女房が応じる過程で形成されたその意味を、著者は強調する。自賛に満ちた箇所も、嬉しい応酬の機会を設けてくれた定子への感謝なのだ。

 一方、権力者や権力に靡(なび)いた者への不満は書かず、定子崩御への言及もない。いわば「日常の些細な事柄ばかり」に見える記述こそ意図的であり、定子を永遠に人の記憶に留めるための「サバイバル戦術だった」と著者は説く。

 「いとめでたき」皇后を伝えるため、清少納言はこのように《たくらみ》つつ、仕えた7年の歳月を『枕草子』という「作品」に仕立てた。それほどまで、定子を愛したと言えるのかもしれない。

 主人を魅力的に伝えるため、作者自身「道化」にもなった。例えば、兄・伊周の失脚がもとで一度出家し、再び一条天皇に召され、懐妊した定子は、時の権力者・道長を怖れた人々の不作為(忖度!)で、粗末な門しかない下級役人の家で出産する。牛車を入れられず、乱れ髪で男どもの前を歩く不快を口にする清少納言に、定子はそんな折でも、身だしなみをたしなめる。しかも笑って、である。

 誰よりも屈辱と悲嘆の底のはずの皇后。だが定子は、貧家にいても定子らしさを失わない。その凜とした有様を印象づけるため、清少納言は、漉かない髪(くせ毛だったとか)のままの自分という戯画を添えた。「人は慰められるよりも自分に相応しい役割を与えられた方が元気が出るものだ」。著者のこの言葉は、不思議な説得力を放つ。

 すでに『源氏物語の時代――一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書)『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)などの好著がある著者は、有名な「したり顔にいみじう侍りける人」を含む、清少納言を酷評した『紫式部日記』についても、鋭く分析してくれる。

 あれは、清少納言がじつは浅学で気取り屋だという嘲笑と読めるが、それだけではない。定子と兄弟の凋落、つまり主家の悲劇を経験しながら、専ら「をかし」を書き留めた(ように見える)不埒な女房に対する、主人は違うが同じ女房としての苛立ちのようにも思える。

 だが、なんと著者の解はこうだ! 「清少納言は紫式部に酷評されたのではない。させたのである」(紫式部が中宮彰子へ出仕するのは、皇后定子崩御後。だから清少納言と時期は重ならず、紫式部の酷評はあくまでも読書と伝聞が根拠ということになる)。

 紫式部は、二人の曽祖父(定方、兼輔)が右大臣と中納言。著者によれば、そうした上流貴族の「栄光が決して忘れられない人物」だった。貴族の証は教養である。だから、受領階級に下ったとはいえ、さらに下流出身者が示す教養(の断片のような表現)が、許せなかったのかもしれない。

 著者は言う、「教養の正しさ、深さという絶対評価を価値観とした紫式部と、コミュニケーション・ツールとしての教養という相対評価を価値観とした清少納言。二人は違っていてよい。違っているところが面白い」。強く、同感したい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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