メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

西城秀樹さんは歌謡曲の可能性を突き詰めた

彼は、歌謡曲をどのように変革させたのか?

印南敦史 作家、書評家

TV番組の収録で熱唱する西城秀樹さん 2006年TV番組の収録で=2006年

誰にも愛された「時代のアイコン」

 西城秀樹さんが亡くなった。

 2018年5月17日のお昼ごろ、「号外」としてニュースアプリが知らせてくれたその事実は、僕をなんとも言えない気持ちにさせた。「悲しい」とか「寂しい」とか、そういうありきたりな言葉では表現できない複雑な気持ちにだ。

 そうでなくとも、63歳とはあまりに若すぎる。脳梗塞を二度患ったという話はマスコミ報道を通じて知っていたから、なんとなくわかるような気もするのだけれど、そうにしても早すぎる。

 同じような気持ちになった人は少なくないだろうし、そんなとき、気持ちを表すために使われるのは「芸能界にとっての大きな損失」「また昭和が遠ざかっていく」というようなフレーズではないだろうか?

 たしかに、そのとおりかもしれない。しかし同時に、絶対的にそうではないとも言える。なぜなら西城秀樹という人はどこにでもいるようなアイドルではなく、特に1970年代という時代を生きた人々にとっては「共有できるアイコン」なのだと思うからである。

 別な言い方をするなら、年齢・性別・職種に関係なく、多くの人がその存在の価値を共有できる芸能人。

 しかし実際のところ、そんな人は、そうそういない。だから、僕たちが失ったものは大きいのだ。

 現代においては、「YouTube ○億回再生を記録!」というようなトピックが歌手やアーティストの価値基準になっている。もちろんそれはそれで、ひとつのあり方として認めるべきものなのかもしれない。

 だがひとつだけ、重要なことがある。再生回数の多さは、必ずしも国民的な支持の大きさとはリンクしないということだ。

 それが現代なのだ。もはや僕たちは、「みんな大好きな」歌手やアイドルを共有できなくなっている。「誰でも知っている」ことはあるかもしれないが、やはりそれとは話が別だ。

 だからこそ、いつまでも「みんな大好きな」存在であり続けた西城秀樹さんには価値があったのだ。しかも彼は、「彼にしかできないなにか」を持っていた。だから愛されたのだ。

 そこで改めて、「西城秀樹とはなんだったのか」を考えてみたい。

リハーサルで=2006年リハーサルで=2006年

「違和感」とは無縁な存在

 僕は1962年生まれなので、西城秀樹さんが「恋する季節」でデビューしたときは10歳だった。もっとも当時はその曲になじみはなかったし、彼の名前も知らなかったかもしれない。

 そのあたりについては記憶が定かではないが、少なくともいま「恋する季節」を聴いてもあまりピンとこないので、その時点ではまだ気になる存在だったわけではなさそうだ。

 やはりきっかけは、翌年の「情熱の嵐」だった。その曲には、そろそろ思春期にさしかかろうかという時期に来ていた子どもたちの心をつかむには十分すぎるほどのインパクトがあった。みんなあの曲が大好きだったから、小学校の教室のあちこちから、「君が望むなら(ヒデキ!)」という歌声が聞こえてきたことを覚えている。

 そうそう、みんなが真似していたといえば、「激しい恋」(74年)もそうだった(特に男子にとっては)。オーバーアクションで「やめろっといわれても!」と歌ってみせてそれがウケれば、一時的な人気者になれたのである。

 だから自然とそのあたりから、「ヒデキ」はみんなのアイコンになっていったのだ。

 不思議なことがある。「ちぎれた愛」「愛の十字架」(ともに73年)と続く、いま聴けば大げさだと感じずにはいられない……というよりは、正直なところ恥ずかしすぎる楽曲も、彼が歌えばなぜかしっくりきたことだ。

 その極めつけが、「傷だらけのローラ」(74年)である。冷静に考えてみれば、「ドラマティックにもほどがあるだろう」とツッコミを入れたくなるような楽曲だ。だから、もしもあの曲を別の誰かが歌っていたとしたら、おそらく大失敗したのではないかと思う。いわば歌唱力のみならず、本人の存在感がどうしても必要な楽曲だったのだ。

 でも、彼はそんなハードルを軽やかに越えてみせた。というよりも、それは彼にしかできないことだった。だから、大きな支持を得ることができた。

 そう考えていくと、なにが西城秀樹さんの魅力だったのかがわかってくる。おそらくそれは、「違和感のなさ」だ。当時はそんなことに気づいていなかったが、なにをやっても違和感がないからこそ、多くの人々に受け入れられたのだ。

 では、なぜ彼はなにをやっても違和感がなかったのだろうか? 

・・・ログインして読む
(残り:約2164文字/本文:約4014文字)