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ネットを活用して地域から全国発信する

ローカルジャーナリストという新しい選択

田中輝美 ローカルジャーナリスト

写真1 松江市の今井書店殿町店にある筆者の本を扱っているコーナー写真1 松江市の今井書店殿町店にある筆者の本を扱っているコーナー
 15年間勤めた地方紙・山陰中央新報社(本社・松江市)を退職し、独立してから約1年が過ぎた。現在は、松江市の川沿いの古民家にシェアオフィスを構え、島根を舞台にしたニュースを全国に発信している。地域に暮らしながら地域の中と外をつなぐ、インターネット時代の新しい記者のスタイルを「ローカルジャーナリスト」と名付け、自分の肩書にも使っている(写真1)。

自分のモノサシを大切にしたい

 山陰中央新報には、実は最初から希望して入社したわけではなかった。発行エリアは島根、鳥取両県で、島根で生まれ育った私にとっては慣れ親しんだ地元の新聞社ではあったが、就職活動では、進学した大学があった関西地区の在阪テレビ局や全国紙を受験した。しかし、内定は得られなかった。

 大阪のアパートを引き払って島根に戻るときは「都落ちだな」となんとなく惨めで、「いつか島根を出よう」と転職を考えていた。

 地元に戻った後、山陰中央新報に入社したものの、入社3年目に、ある全国紙を受験した。選考が進むにつれて、うれしさの半面、違和感を覚えだした。その全国紙に転職すれば、島根とは違う新しい土地で取材し、記事を書くことになる。そのとき私は今と同じ情熱を傾けて打ち込めるのだろうか、と。

 結論は「できない」だった。考えてみると、相手の生き様に惚れ込んで「もっと伝えたい」と突き動かされるように取材し、批判するときも「少しでもいい地域になってほしい」と願いながら記事を書いていた。

 もちろん他の土地でもそれなりにはできるだろう。だが、やはり、島根に暮らす人たちが好きで、思い入れがあるからこそ、本気で向き合えていたことに初めて気づいた。単に全国紙という「ブランド」に憧れていただけだった。

 「ブランドという他人のモノサシではなく、自分のモノサシを大切にしよう。都落ちではなく、私の幸せはここにあるのだから、主体的にここで生きていこう」

 その日から私のスタンスは180度変わった。

地方紙の役割を取材を通じて確認

 山陰中央新報の発行部数は約18万部。シェアは県内の中でもばらつきがあるが、本社がある県庁所在地・松江市を中心としたエリアのシェアはかなり高く、記事を書けば反響があった。読まれている実感があった。

 ある日、進行性の難病の20代の女性から手紙が届いた。看護師になりたいと思って大学に通っている一方、不安に押しつぶされて諦めそうになるときもある。そんな葛藤や夢を素直な感性で、詩に綴っていた。一人でも多くの人に知ってもらえればと考え、彼女の思いと詩の内容、個展を告知する記事を執筆した。

 個展は小さな会場だったが、記事を読んだ人が次々と訪れ、共感の輪が広がっていった。これがきっかけで、詩をまとめて出版することができ、彼女は読んだ人からの感想を励みに、生き生きと創作活動に励むようになった。

 こうした体験を通して、ジャーナリストの役割の一つは「つながりをつくること」だと感じるようになった。特に地域の中の人同士をつなげることは、地域で信頼され、読まれている地方紙の得意技と言えた。

 さらに地方紙の強みは、全国紙に比べても地元関連のニュースを伝える紙面のページが多いことから、特集や連載に取り組みやすいことだ。

 医師不足が全国的に問題となった2006年、島根でも離島の隠岐諸島で常駐していた産婦人科医がいなくなり、島でお産ができなくなる事態に直面したことがあった。本社報道部では、住民の声を聞くのはもちろん、なぜ医師が不足するのかという根本的な原因を分析しようと、取材チームを結成。私も加わり、07年に連載「医変 地域医療の存亡」(4部27回)を展開し、県内の大学医学部の現状も含めて多角的に検証した。この連載は優れた医学・医療報道に贈られる「第27回ファイザー医学記事賞」(08年)の大賞を受賞した。

 医療問題に限らず、地域の課題や新しい動きはできるだけ追いかけた。特に山陰中央新報ではいわゆる「没」になる原稿は少なく、たとえつたない原稿や企画でも上司や先輩が丁寧に指導してくれ、何度も書き直しながら、結果的に掲載にいたることが多かった。その分、原稿をたくさん書き、場数を踏むことができた。前例がないことにもチャレンジさせてもらえる環境があった。

 その一つに、13年度の新聞協会賞を受賞した、沖縄県の琉球新報社との合同企画「環めぐりの海」がある。

 12年、島根県の竹島に韓国の李明博大統領(当時)が上陸し、沖縄県の尖閣諸島では日本の国有化を機に中国の船が領海侵犯を繰り返していた。日中韓でナショナリズムが高まり、相手国への感情が悪化する負の連鎖に陥っていたことが連載のきっかけだった。

 領土問題という複雑で繊細なテーマを地方紙でどう扱えばいいのか。

 国家対国家の問題ととらえられがちな領土問題だが、島根県に住む私たちにとって、竹島は地元であり、周辺の海で生活している漁業者がいる。そして、韓国は古くから交流してきた隣国だ。「生活者の視点で領土問題をとらえ直そう」。スタンスがぶれないことを心がけて取材を進めた。

 両社合同の取材チームで、13年2月から6月まで5部計63回を連載。漁業者だけでなく韓国、中国、台湾を訪れて住民の声を聞き、領土問題を平和的に解決した世界中の事例を訪ね歩いて紹介した。

地域の外に広げる難しさを痛感

 この連載を通じて、問題意識を深めることにもなった。私が執筆した原稿について、琉球新報側から「わかりにくい」と指摘を受けた。背景や文脈の説明が不足し、意味が伝わらない原稿になっていたのだ。普段はそれほど詳しく説明しなくても、同じ地域の読者に向けて書いていたから、通用していたのだろう。地域外の人に伝えるための技術と視点を、もっと磨かなければいけないと思い知った。

 また、島根県の漁業者が15年前に経験した日韓漁業交渉と、沖縄県の漁業者が連載時に直面していた日台漁業交渉は、似た経過をたどっていた。島根と沖縄の事例を並べることで、初めて「漁業者を後回しにした外交」という日本外交の構造を浮き彫りにすることができた。もちろん、それまでも漁業者の怒りや政府の批判は書いてきたが、「中央」と「一地方」という枠組みでとらえ、島根の事例として強調することで、結果的に「一地方の特殊問題」に矮小化させ、地方間の分断すら生んでいたのかもしれない、と感じた。

 この連載を通じて、地方紙の限界を感じることもあった。そもそも、地方紙は書かれた記事が地域の中でいくら共感を得ても、地域の外にはなかなか届かず、広がりが限定的だ。「地域の伝えるべき情報を、自分はより多くの人に伝えることができていないのではないか」。内容には自信があり、伝えたい気持ちが強かっただけに、余計にそう感じて悔しさが募った。

 これまでの地方紙は、地域の情報を地域の中の読者に届けるビジネスモデルだった。地域外に自社の新聞を届ける配達網はなく、インターネットを使うとしても、例えば自社のサイトで外の読者に発信したところで、広告費で得られる収益が少ないこともあり、主力事業にはなりにくい。

 では、誰が地域の中と外をつなぐ役割を果たしているのだろうか。一つは全国紙やテレビである。さらに、地域情報も扱う新しいウェブメディアも生まれてきた。

 しかし、それを担っているのは、東京の企業や記者が中心だ。彼ら彼女らは、短時間で「旅人」として地域を訪れ、わかりやすい事象を切り取っていく。批判するつもりはない。旅人だから表現できることがあり、地域の人が日常の中で気づかない価値や発見をもたらしてくれることもあるだろう。

 問題なのは、もう一方の、地域から外に向けた発信の流れが細すぎることだ。そう感じるようになってから、実際、調べてみると、フリーのジャーナリストも多くが東京に拠点を構えていた。地域に暮らしながら、地域の情報を外に向けて発信している存在は、ほとんど見つからなかった。

 そんなころ、家庭の事情もあって退職を考え始めた。メディアではない県内の別の企業に転職して「兼業ジャーナリスト」になるという道も検討した。

 しかし、これまで感じてきた限界や悔しさを思い出し、「地域に暮らしながら地域のことを発信するフリーのジャーナリストがいないなら、まずは自分がやってみればいいのではないか」との思いがふと浮かんだ。地域の中をつなぐことはすでに地方紙が基盤として機能している。「取り組むべきは中と外をつなぐことではないか」

 すでにインターネットがあれば全国に発信できる時代になっていた。中でも、東京支社に勤務していた11年に、有志で設立した「日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)」の存在も後押しした。

 この組織は、ジャーナリストやエンジニア、研究者ら多様な仲間が集まって、個人が切磋琢磨できる場をつくり、ソーシャルメディアの登場による「誰もがジャーナリスト」時代の情報発信の在り方を実践したい、との思いで結成したものだ。ジャーナリストが合宿形式で地方を訪れ、ウェブで記事を発表する「ジャーナリストキャンプ」や、優れたインターネット上のジャーナリズム作品を来場者の投票で決め、表彰する「ジャーナリズム・イノベーション・アワード」を毎年、企画運営してきた。

 こうした活動を通じて

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