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なお完了せぬ沖縄の日本復帰

「はてしなき過程」を前進するために

高良倉吉 琉球大学名誉教授

 平凡な認識や確認を提示する程度の一文でしかないが、愚見を述べておきたい。

 私が敬愛し、多大な影響を受けた歴史学者安良城盛昭(あらきもりあき)(1927〜93年)は、「はてしなき過程としての復帰—急速な本土化達成は幻想」と題する時評を1978年に書いている(安良城『天皇・天皇制・百姓・沖縄』に収録、1989年、吉川弘文館)。東京大学を辞めて1973年に沖縄大学に転職し、琉球史研究に没頭していた安良城だが、この一文を草した頃はやむを得ざる事情により、勤務先の学長・理事長として経営の仕事に腐心する日々だった。

 沖縄が日本に復帰して6年目のこの時点において、安良城は次のように述べている。

 「復帰が、日本国家のうちへ形式的に沖縄を組みこむことを単に意味するだけでなく、実質的な内実をもった、沖縄社会の日本社会への一体化と本土諸地方との同等化を意味するものであるとするならば、復帰はいまなお完了していないし、そしてまたそれは、将来何時完了するとも今のところ予測し難い、はてしなく長い一つの過程と考えられる」

沖縄住民は自らの選択で日本社会に加わった

 安良城はその著作・論文において、沖縄を考える際の多くの視点・視座を提示した論客だったが、先の文章には二つの認識が前提に据えられている。一つは、「復帰とは、沖縄住民が自らの選択によって日本社会に加わったことを意味している」こと。二つは、「現行の安保体制が存続する限り、『基地のなかの沖縄』という事態は維持され続け、本土の諸地方との同等化は本質的に阻止され続ける」こと。つまり、主体的な選択を通じて沖縄住民は日本社会に加わったが、日米安保・米軍沖縄基地の問題が存続するかぎり、本土他府県と同等の条件下で生活することはできない。したがって、日米安保・米軍沖縄基地をめぐる問題が温存され続けるとなると、「本土の諸地方との同等化」は実現できないのであり、沖縄の日本復帰は「はてしなき過程」として問われ続けることになる、と述べたのである。

 彼はマルクス主義理論を土台に研究活動を展開し、戦後歴史学界を牽引(けんいん)する大きな存在の一人であったから、当然のことながら、日米安保・米軍沖縄基地に対しては批判的な立場だったはずである。私が着目したのは、政治的主張を前面に押し立てて持論を言うのではなく、沖縄にとって重要な転換点であった日本復帰の意義とその後の見通しについて、考えるべき論点を提示しようとしたその姿勢だった。

 沖縄の日本復帰をめぐる運動・思想の評価については、反国家・反復帰論を主唱した新川明などの立場があり、あるいはまた、大状況としての祖国復帰運動には埋没しない思想・営為の水脈が存在したことは多くの研究で明らかにされている。しかし、そうした地平の存在を念頭においたとしても、沖縄の日本復帰は、安良城が言うように、沖縄住民の主体的な選択がもたらした結果なのである。外圧によって強要されたものではなく、また、欺瞞的(ぎまんてき)な誘導による産物でもない。ようするに、アメリカ統治下の沖縄住民の圧倒的な多数意思は、日本への復帰を選択した。現実に起こったこの出来事を前提としなければ、1972年5月15日から今日に至る過程を評価することはできないと思う。

「同等化」阻む基地問題 高まる「差別」「独立」の声

沖縄が返還された1972年5月15日の朝日新聞夕刊1面沖縄が返還された1972年5月15日の朝日新聞夕刊1面
 日本に復帰することを主体的に選択した沖縄住民は、復帰後の過程をどう受け止めたのか。各種の世論調査や県民意識調査が示すように、「復帰して良かったか」を問う設問に対し、概括的に言うならば、沖縄住民の多数意思は沖縄が日本の一員であることを一貫して拒否していない。また、制度的要件を満たす沖縄県内の政党や政治結社も、沖縄が日本の一員であることを前提に活動している。つまり、日本復帰という選択とその結果がもたらしたところの枠組みは今なお了解され続けており、沖縄は日本の一員であるという前提に立って沖縄住民は日々の生活を送っている。

 問題の焦点は、安良城が指摘した「同等化」を阻止する日米安保・米軍沖縄基地をめぐる問題であろう。復帰から45年の歳月が経過したというのに、在日米軍専用施設の約7割が沖縄に偏在し続け、事件・事故は言うに及ばず、土地利用上の大きな障害になっている現実は何ら変わっていない。「実質的な内実をもった、沖縄社会の日本社会への一体化と本土諸地方との同等化」を阻む大きな要因は、依然として居座り続けている。「復帰はいまなお完了していないし、そしてまたそれは、将来何時完了するとも今のところ予測し難い、はてしなく長い一つの過程」、と指摘した安良城の言葉を今なお反芻(はんすう)せざるをえない状況である。言い方を換えると、沖縄は日本社会の一員としていまだ公平に扱われていない、という問題が継続している。

 特に、米兵による少女暴行事件(1995年)や沖縄国際大学キャンパスへのヘリコプター墜落事故(2004年)以後、米軍沖縄基地に対する県民の疑念・批判は強まった。さらに、普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題がクローズアップされた段階に至ると、本土との「同等化」どころか、むしろ差別と呼ぶべき構造が沖縄に押し付けられているのではないかとの批判の声が急速に高まった。その批判のなかから、沖縄は日本の一員であるべきか否かを問う主張も台頭しており、さらには、沖縄の独立可能性を訴える動きも登場するようになっている。それらの主張のなかには、日本復帰を主体的に選択したかつての沖縄住民の政治意識の在り様に対する批判も含まれている。

 さらにまた、歴史問題がしきりに提示されるようになった。琉球処分=沖縄県設置(1879年)による沖縄の強制的な編入・併合の問題や近代の差別の問題、沖縄戦の過酷な実態の問題、沖縄を切り離して本土が独立した戦後の問題、軍事的植民地状態に置かれた戦後の基地オキナワの問題など、過去から様々な出来事を引用しつつ、今日の米軍沖縄基地問題に連なる「構造的差別」を指弾する論調も高まりを見せている。

 さらには、米軍沖縄基地問題を通じて発せられる沖縄住民の怒りの声と、その声に対する本土日本人の反応状況を指摘して、沖縄と本土のあいだに横たわる溝が広がっている、と強調する言説も目立つようになった。安良城が述べた時点よりも、沖縄と本土の「同等化」を阻止する要因としての日米安保・米軍沖縄基地問題はより典型化されたかたちになっている。

両者の融合・一体化は切り離せぬほどに進む

沖縄返還から45年を経た2017年5月15日付の朝日新聞朝刊第1社会面沖縄返還から45年を経た2017年5月15日付の朝日新聞朝刊第1社会面
 しかし、この問題に多くの人びとの関心が収斂(しゅうれん)するあまり、大切な点を看過する傾向が見られることを私は危惧している。

 復帰後のこの45年間、沖縄と本土の相互認識は、日米安保・米軍沖縄基地問題という衝立(ついたて)を挟む関係にのみ終始してきたのだろうか。

 沖縄の人びとと本土の人びととの交流は様々なレベルにおいて、量的・質的に拡大し続け、彼我の相互理解は格段に進んだ。本土の側からは仕事や観光、修学旅行、就学、イベント参加、結婚、移住などのかたちで沖縄経験を積み重ねており、沖縄の側も同様のかたちで本土経験を積み上げてきた。特に強調したいのは、本土出身者が様々なポストを得て沖縄で生活するようになり、沖縄という地域社会の担い手として欠くべからざる存在になっていることである。例えば、沖縄県庁の職員や地元メディアの社員、学校教員として活動する他府県出身者は珍しくもない時代になった。沖縄と本土の一体化、「同等化」は確実に進んでおり、その実態は、沖縄出身者のみで構成される沖縄社会、という認識をすでに過去のものとするまでになっている。

 沖縄社会を維持・発展させるためには、ウチナーンチュ(沖縄人)というマンパワーのみでは戦力不足であり、出自を問わない人材群の参画が不可欠になっている。復帰後の沖縄社会は確実に変容しており、その変化は日本に復帰するという選択がもたらした当然の帰結だと言える。

 日米安保・沖縄米軍基地の問題を脇に置くならば、現在の沖縄は、日本の一員として「本土の諸地方との同等化」が急速に進行している。言い換えれば、

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