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写真は直接命を救えない、でも伝えられる

出来ないことの自覚が人への敬意を生む

安田菜津紀 studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト

 「どうやって生計を立てているんですか?」「危険な目に遭ったことはないんですか?」。メディアの仕事に興味がある学生たちや、ジャーナリストを目指す自分よりも若い世代から、必ずといっていいほどこう尋ねられる。時折「こんなに辛い仕事をどうして選んだんですか?」という投げかけもあるほど、どの問いもジャーナリストが厳しい仕事だということを前提としているものだ。確かに発表先としていた紙媒体は減る一方で、決して儲けたいからと就ける仕事ではない。それにもかかわらず危険地での取材には常にリスクがつきまとう。そういった現実を考えると、こうしたネガティブな質問を投げかけたくなるのも無理はないかもしれない。

 今私は、フォトジャーナリストとして、仲間と築いた小さな会社をベースに活動を続けている。実質活動の仕方はフリーランスとほぼ変わらない。同業の先輩たちの多くが、一度新聞社や通信社、出版社などを経てフリーランスとなっているが、私には大手メディアに所属をした経験もない。自分が伝えたいと思ったテーマを、時間をかけて追い、写真と共に伝える仕事を学生時代から続けてきた。今は東南アジアや中東、アフリカで貧困や災害、難民問題を取材しているほか、東日本大震災以降は東北の被災地での記録も続けている。確かに多くの学生たちが指摘する通り、決して経済的に裕福になれる仕事ではない。ただ「生まれ変わってもこの仕事がしたいですか?」という質問に、私は即座に「はい」と答えたことがある。なぜ今、迷いなくそう思えるのか。ここからは私がこの仕事を選んだきっかけや、これまで突き当たってきた様々な壁、それでもなぜやり続けるのかを綴っていきたいと思う。これから「伝える仕事」を志す方々にとって、少しでも未来をつかむ手がかりになれば嬉しい。

カンボジアの子どもたち

 話は高校時代にさかのぼる。恐らく伝える仕事を目指す最も大きなきっかけとなったのが、16歳のときに訪れたカンボジアだ。NPO法人「国境なき子どもたち」が毎年11~16歳までの日本の子どもたちを二人ずつ、アジアの活動地に派遣して取材をさせる「友情のレポーター」というプログラムを実施していた。その「レポーター」の一人として、2003年カンボジアに派遣されることになったのだ。

 こう書くと元から意識が高く、国際協力などにアンテナを張っていた高校生だったように思われるかもしれない。ところが当時の自分といえば、海の向こうはおろか身近な人の手助けにさえ、さして興味を抱けずにいた。私的な話となってしまうが、応募のきっかけは恐らく中学2年生のときに父が他界したこと、そしてその後を追うように、翌年兄がこの世を去ったことだろう。「家族って何だろう?」「人と人とが一緒にいられる時間は、なぜこうも限られているのだろう?」。答えの出ない疑問が頭の中でぐるぐると渦巻くにつれ、いつしか周囲との関わりを避けるようになった。家族との会話もめっきり減っていた。そんなときにたまたま担任だった先生を通じて知ったのが、その「友情のレポーター」だった。最初は全く興味を抱けなかったものの、ふとこう考えるようになった。「全く違う環境で生きている同世代の子たちは、どんな価値観を持って、どんな風に家族と接しているんだろう」。もし踏みだすことができれば、自分が漠然と悩んできたことに、答えが見いだせるかもしれない。そんな自分本位な気持ちで応募を決めた。

初めて感じた「伝えたい」との思い

 初めて訪れたカンボジアは、何もかもが驚きであり衝撃だった。炎天下、砂埃にまみれて一日中裸足で物を売る小さな子どもたち。地雷の被害で手足を失い、うずくまって物乞いを続ける大人たち。私たちがとりわけ多くの時間を共に過ごしたのは、「トラフィックト・チルドレン」と呼ばれる十代半ばの青少年たちだった。彼らは皆、人身売買の被害者だった。

 カンボジアでは30年近くにわたる内戦が終結した後、今度はその社会の歪みが貧困を生み、特に農村部に暮らす家族たちを苦しめていた。そんな貧困層の家族に、〝トラフィッカー〟と呼ばれる人身売買業者が「学校に行かせながら子どもを働かせる」などと言葉巧みに近づき、親たちをだまして子どもを買っていくのだ。当時はこうして子どもたちが〝商品〟として売買される被害が絶えなかった。私はそういった過去から保護され、施設で暮らす同世代の少年、少女たちと数日間を共にすることになる。

 果たして異国から来た自分たちを、彼らは受け入れてくれるのだろうか。膨れ上がる一方だった私の不安は、いい意味ですぐに裏切られることになる。「名前はなんていうんだ?」「あっちでゲームしよう!」と彼らは、外から来た私たちをあっという間に輪の中に引き入れてしまうエネルギーに溢れていた。けれどもひとたび過去について語り出すと、彼らの表情は一変した。それぞれが生き抜いてきた日々はどれも壮絶だった。例えば彼らは、自分自身につけられた値段をはっきり覚えていた。「僕に値札がつけられた」と彼らが教えてくれたその値段は、日本円でいえば2~3千円、あるいはそれ以下だ。路上で物売りをさせられていた少年は、壮絶な虐待の記憶を打ち明けてくれた。「あるとき物が殆ど売れないまま寝床へ帰ると、〝稼ぎはこれだけか!〟ってトラフィッカーに殴られた。それより痛かったのが、電気ショックを与えられたこと」。同い年の少年は、まるで他人事のように淡々と語った。

 それぞれの過酷な体験に、私は押し黙るしかなかった。けれどもそれ以上に驚かされたことがある。「自分は今こうして施設にいて、食べる物も寝る場所もある。だけど家族は今頃、どちらもなくさ迷っているかもしれない」「弟、妹たちを支えたいから、自分がいち早く身に着けられる技術や知識は何かって考えているんだ」。彼らが真っ先に語るのは、「自分」ではなく、家族や、守りたい誰かのことだったのだ。そんな彼らの姿勢に、はっとさせられた。〝豊か〟といわれる日本からやってきた自分は、「なぜ家族はもっと優しくしてくれないんだ」「なぜ友人たちはもっと理解してくれないんだ」と自分しか守るものがなかった。だから脆かったのだろう。私もいつか彼らのように、自分から誰かに優しさを配り、守れる人になりたい。10日間という短い滞在は、そんな彼らから〝人として生きる上で大切にしたいこと〟を教えられてばかりの日々だった。

 帰国後、私の中には自然と、彼らに何かを〝お返ししたい〟という気持ちが芽生えていた。頂いた言葉や時間に対して、自分はどう応えていくべきなのか。同じ思いをする子どもたちは、どうやったら減っていくのかを未熟ながら考えてみた。ところがすぐに、自分に出来ることなど殆どないという現実が突きつけられた。例えば自分には莫大な資金があるわけでもない。自分が出会ってきた少年たち、少女たちにさえ、毎日お腹いっぱいになってもらうこともできない。特別な技術を身に着けているわけもなく、誰かが怪我を負ったり病気にかかったりしても、治療することもできない。そんな自分にも何かが残されているとすれば、五感で感じたカンボジアを少しでも多くの人たちに伝え、分かち合うことではないだろうか。当時の自分に唯一出来ること、それが「伝える」ということだったのだ。

 「伝えたいこと」が心から湧き上がると、人間の行動はこうも変わるのかと自分でも驚く。それまで社会的な繋がりから殆ど背を向けていた生活が一変、「記事を書かせてほしい」「この経験を広めたい」と思いつく限りの雑誌社や新聞社に電話をかけたりメールを送ったりした。雑誌の中では2誌が執筆の機会をくれ、初めての原稿に試行錯誤しながらも無事掲載にこぎつけることが出来た。ところがいざその雑誌を手にしたとき、自分が一番伝えたいはずの同世代の友人たちに突然「読んで」というのはハードルが高いことに気づいた。特に掲載してもらった雑誌は2誌とも、硬派なジャーナリズム誌だった。掲載を喜ぶ反面、もっと間口の広い伝え方はないのだろうかという模索が始まった。

気づいた写真の力

 ある時学校の教室で、カンボジアで撮った写真を友人たちに見せていたときのことだった。当時は本格的に写真に取り組んでいたわけでもなく、記録としてインスタントカメラで撮ったものだった。それでも「ねえねえ、何の写真?」と普段は殆ど会話をしないクラスメイトたちまでもが話しかけてきてくれた。そんな彼女たちの反応から、写真の持つ役割に少しずつ気づかされることになる。確かに文字の方が、情報量は圧倒的に多い。けれどもその文字にたどり着くまでをどう導くかが問題だった。その点写真は、瞬きをするその一瞬で目に映り込み、もしそれが力のある写真であれば「何だろう?」と、無関心から関心へと、人の心を引き寄せることができるのだ。「知りたい」という気持ちの最初の扉を開く力が、写真にはあるのかもしれない。実際この後、渋谷敦志氏というフォトジャーナリストに出会い、彼の写真に引き込まれていくことで、益々その力を知ることとなった。自分が見てきたこと感じたことを、この一瞬のエネルギーに込めてみようと、大学入学後はカンボジアへ通っては写真を撮って取材し、帰国後に出版社や新聞社へ持ち込む、ということを繰り返した。

 大学3年生にもなると、次第に周囲との会話の中で〝就活〟という言葉が飛び交うようになる。リクルートスーツを着込んだ同級生たちを横目に、私は進路を決めかねていた。当時私はカンボジアで、HIV感染者家族が集められた村の取材を進めていた。このまま取材を続けていくべきなのか、それとも新聞社や通信社でしっかりと経験を積むべきなのか、答えが出なかった。「自分には経験も足りないし、数年間は新聞社で学びたい」。そんな相談を師匠でもある渋谷氏にすると、「そんな生半可な気持ちなら、写真ごとやめたらいい」と厳しい答えが返ってきた。写真やジャーナリズムそれ自体という抽象的な興味ではなく、具体的に取り組んでいるテーマがあるならそのまま続けるべきではないのか。あなたが独立まで経験を積もうという数年の間に、自分が取材で関わらせてもらった村でまた、エイズで人が亡くなるかもしれない。子どもたちが売られて行ってしまうこともあるかもしれないじゃないか、と。その言葉で、私の心は決まった。関わり続けるということが、取材に応じて下さった方々に誠意を示せる、数少ない手段の一つだと感じたからだ。

 語弊のないように付け加えると、大手メディアと独立系ジャーナリストの間に優劣をつけようというのではない。私たちは新聞社や通信社のように、一度に多くの人たちへメッセージを届けることはできない。ただ、朝刊や夕刊に間に合わせなければならないというような〝締め切り〟に追われないため、とことん一つの場所や一人の人と向き合うことができる。要は役割が違うだけなのだ。発信は少しずつかもしれない。けれども貧困やエイズといった根深い問題と長く関わるために、今の道をこのまま進もう。そんな答えにたどり着いたときには、もう迷いは消えていた。

一本松は「希望」なのか

安田さんが撮った、朝日の中の一本松=岩手県陸前高田市
 卒業後は海外の取材を中心に、主に紙媒体への掲載のほか、講演活動を続けていた。そんな2011年3月11日、ちょうどフィリピンの山奥に滞在していた私の下に、
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