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[6]Human Recovery Project

二木信 音楽ライター

 311以降、さまざまな形で被災地支援の活動を行う人々がいる。行政や自治体と連携しながら、あるいは、独自に支援活動を展開している。ここで紹介するHuman Recovery Project、通称HRPも3月11日の地震以降、また、福島の原発事故以降、積極的に東北や福島の被災地に入り、支援活動を行ってきたグループだ。

 HRPを立ち上げた穴水正彦(46歳)は、普段はn.a.m.という音響機器のレンタルを行う会社を切り盛りしている。また、PINPRICK PUNISHMENTというハードコアパンク・バンドのメンバーとしても活動している人物だ。

 東京の西武新宿線・鷺ノ宮駅から徒歩5分ほどのところにあるn.a.m.の事務所には、スピーカーやマイク、ドラムセットといったPA機器や楽器が所狭しと積み上げられている。n.a.m.は主に音楽イベントや結婚式などへの音響機材の貸し出しと、そのオペレーター業務を請け負っているが、地震の影響で、3月、4月の仕事は9割が飛んでしまったという。

 「被災地の支援に乗り出したというのは、最初からはっきりした社会的な動機があったからというわけではないんですよ。僕たち自身、仕事がなくなってやることがないから、何かやっていないと自分がおかしくなってしまう。そんな思いからでした」

 穴水は謙遜するようにそう語り始めたが、彼は地震から5日後の3月16日に、阪神・淡路大震災の被災地支援でともに行動したボランティア仲間と早くも集まったそうだ。また、ピースボートや社民党の議員とも連絡を取り、支援活動の糸口を探ったという。

 「こっちとしてはすぐに動きたいんだけど、大きな組織の人たちもどうしたらいいかわからない状況だった。それなら大きい組織の指示を待ってもしょうがない。それで、単独で動き始めたんです。自分のバンドのメンバーや会社の若い子を誘ってね。そこでいち早く反応して動きだしてくれたのが普段一緒にライブをやっているハードコアパンク・シーンのバンドの仲間たちだった。僕がバンドの人たちを組織して支援を展開しようとしたわけじゃないんです」

 パンクのシーンには独自のネットワークがあり、そのネットワークを通じてHRPの活動は前に進んでいく。カンパも瞬く間に集まり、団体名も決まる。HRPという名前は第1陣が石巻・仙台に支援に行っている間に決まっていたという。

2011年7月3日、福島県南相馬市で行われた催し「Peoples Action」(写真提供=Human Recovery Project)

 ウェブサイトも彼らが現地から東京に帰って来る頃にはできていた。そのサイトには「d.i.y.音楽ネットワーク“なんでもない人らによる区別なき”支援」と掲げられている。「俺たちはパンクバンドをやっているんだから支援活動もするし、パンクバンドとしてベネフィット活動もすればいいんだよ」と、HRPの一員でPINPRICK PUNISHMENTのメンバー、hiroyuki iwamiは『TO FUTURE』というZINE(注:ミニコミ)に寄せたコラムで書いている。

 さらに彼は、そのように考えた理由を率直に綴っている。「パンクバンドはとても個人的で、とても社会的だと僕は腹の底から思い込んでいるから、そう話した」。この自然体な社会意識は、パンクという音楽文化の重要な要素であり、一般的にイメージされるパンクスの反体制、反権力の戦闘的な態度とは異なるもうひとつの特徴だ。

 穴水たちは、物資を集めてすぐにでも出発したかったというが、その頃、東京のスーパーにも物がない状態だった。ガソリンスタンドも空いていないどころか、そもそも支援物資のガソリンを運ぶポリタンクの確保すらままならなかったという。

 「ほんとうはもっと早く動きたくて、3月16日の時点で、もう埒が空かないから現地に行ってしまおうと言っていた。でも、自分たちを賄えるだけの物資を集めることと、支援物資を集めることだけで5日間くらいかかってしまった」

 数日間かかってなんとか物資をかき集め、第一便が出発したのは3月23日だった。宮城県石巻市にユニセフの職員やピースボートの人員、取材陣らを車で送り届け、その足で、普段からつきあいのあった仙台のライブハウス「バードランド」に支援物資を運び込む。バードランドは3月11日の地震直後から、被災者をホールに宿泊させるなどして、自主的な被災者支援を行なっていた。これもパンク・シーンのナチュラルな社会意識を表す良い例だろう。

 穴水自身は3月末に初めて被災地に入った。福島県の南相馬市だった。原発事故に伴う放射能、放射性物資の飛散のため、南相馬は“3分割”されてしまい、非常に複雑な状況にあったという。避難勧告が出され誰も入ることのできない、福島第一原子力発電所から20キロ圏内の警戒区域、20キロ圏外ではあるが年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを超える恐れのある計画的避難区域、そして、20~30キロ圏内のその他の地域は緊急時避難準備区域とされた(緊急時避難準備区域については2012年9月30日に解除されている)。

 南相馬は元々、別の三つの地域が平成の大合併で統合された市であった上に、避難区域の同心円上の線と元々の自治体との線がかなりの部分重なることとなった。それによって、元々地域間にあった葛藤がさらに浮き彫りになったという情報も入っていたようだ。また、一部では妙な噂話もあったというのだ。

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