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原爆と原発を別物に隔ててきた弊害と、科学技術の罪

武田徹 評論家

 今年も広島・長崎の原爆記念日が巡り来る。本校執筆段階では平和記念式典で読み上げる「平和宣言」の骨子案が報じられているだけの段階だが、それによれば広島市の松井一実市長は核兵器を「絶対悪」として厳しく告発する一方で、就任後、過去2回の平和宣言と同じく「脱原発」に踏み込まず、「市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立すること」を求めるという。マスメディアの取材に対して市長は「人殺しのための絶対悪の核兵器と、人間のエネルギー造成のために使う技術は、きちっとした区分けが重要。一緒にしないでください」と述べたとも伝えられている。

 言いたい気持ちはよくわかる。特に3・11後、同じ核の災厄に見舞われた場として広島・長崎と福島を並べて語る機会が増えているが、市民を大量に殺戮する核兵器を意図的に使用する行為の「悪魔性」は、確かに人災、天災の複雑な折り重なりの結果であったとはいえ故意に起こされたわけではない原発事故と同列には論じられないし、論じられるべきものでもない。

原子力を巡る55年体制

 そのことを認めつつ、しかし、一方で原爆と原発を別物として隔ててきたことの弊害を認める必要もあるように思う。

 たとえば1954年の第五福竜丸の被曝事故は広島、長崎に続く3度目の被曝だということで原水爆廃絶を求める大きな市民運動のうねりを日本社会に導いた。しかし、それと同時期に原子力平和利用への期待も高まっている。そこには新聞メディアや原子力平和利用博覧会の開催を通じて、日本の戦後復興のために前代未聞のエネルギー源が必要だと強く訴えた読売新聞社主・正力松太郎の寄与があったが、彼の主張に国民が反応したのは、核の巨大な力への怖れが原子力平和利用の可能性への期待に変換される構図が国民的な広がりにおいて作られていたことが大きい。

 広島長崎への原爆投下に至った第二次大戦への参戦も元をただせば資源不足に端を発する危機感によるものであった。だとすれば今度こそ愚かな戦争を繰り返さないために確かなエネルギー資源を確保したい。そんな国民的な願望の中で求められた原子力は平和への願いと矛盾するものではなかった。結果的に原水爆反対は原子力平和利用と「共存していただけでなく、互いが互いの駆動力となっていた」(山本昭宏『核エネルギー言説の戦後史1945~1960』人文書院)のだ。

 こうした流れの中で55年に左右派分裂に終止符を打った社会党と、保守合同で成立した自由民主党が共に「原子力の平和利用」を政策に掲げる。護憲と改憲で二大政党が対立する構図を55年体制は用意したが、両党はともに原子力利用において原発と原爆の間に一線を引き、安全性と危険性をそれぞれに振り分ける二分法を支持したのだ。日本の原子力政策の悪しき伝統として、その担い手の政府機関であった通産省と科学技術庁が共に推進役であり、ブレ-キを誰も踏まなかったという問題がしばしば指摘されるが、原子力受容の黎明期においてはブレーキ役を果たす政党もなかったのだ。

 こうして批判的政治勢力を欠いた挙国一致の原子力平和利用推進体制の中で前述の二分法を温床として原発の安全神話が育まれた。実は核兵器とは構造が明らかに違う原子炉でも爆発する危険性をいち早く指摘していた科学研究所主任研究員・杉本朝雄のような科学者も存在していたが、

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