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佐世保殺害事件に見るマスメディア第二世代としての加害者

武田徹 評論家

 7月に起きた佐世保の女子高校生殺害事件は、被害者の遺体を解体するなどの異常さ、徐々に明らかになった加害者の育った家族環境の特異性が注目を集め、多くの報道がなされた。

 ここでは、そこで抜け落ちていた別の論点を指摘してみたい。同じ佐世保で、ちょうど10年前の2004年6月にやはり女子生徒が同級生女子を殺害する事件が起きている。加害者と被害者は今回の事件より年少の小学6年生だった。

 この事件に関してはルポルタージュ『謝るなら、いつでもいおいで』(集英社)が先日、刊行された。著者の川名荘志は当時、佐世保の新聞社支局に勤めていた被害者の父親の部下であり、関係の近しい被害者側家族の描写がどうしても多くなるが、少年法の壁に遮られて加害者本人への取材こそさすがに不可能だったものの、加害者家族は取材を敢行しており、ずいぶんと事件の「闇」の部分が明らかになった。

 筆者はこの事件で被害者と加害者が教室で毎日顔を合わせる小学校の同級生でありながら、ネット上でもコミュニケーションを取っていた点が気になっていたのだが、同書には加害少女の家に父親と少女専用のパソコンが二台並んで置かれていたとの記述があり、インターネットと親しむ環境だったことが改めて確認できた。

家庭内コミュニケーションの変化

 少し迂回してみる。金原克範『子のつく名前の女の子は頭がよい』(洋泉社)という本が95年に刊行されている。宮城県の高校進学者名を調べ、「子」がつく名前の女子――洋子とか明子のような――の方がより偏差値の高い学校に進んでいる傾向を統計的に示した内容だ。とはいえそこで著者の目的は名前と偏差値の相関を明らかにすることではない。議論の主な対象は家庭内コミュニケーション環境の変化と、それが子供に与える影響なのだ。

 娘に「子」がつかない名前を命名する家はTVなどメディアとの接触量が多いと金原は指摘する。それはいち早く「子」がつかなくなっていた芸能人の名前を娘に与える傾向が窺えたり、実際に家庭への調査で裏付けられるのだという。

 となるとマスメディアに親しむ家庭で育った子供は偏差値において低迷することになるが、それだけであれば、TVによって「一億総白痴化」が進むと批判した大宅壮一以来の紋切型を繰り返すに過ぎない。そうした現象を説明する際に採用した図式が興味深いのだ。

 フェイス・トウ・フェイスのコミュニケーションは言葉を発する発話者から始まるのではないと金原は考える。発話者は受話者の表情や様子を踏まえて言葉を掛ける。困惑の表情を浮かべていれば「どうしたの?」と声を掛け、喜色満面であれば「何かいいことがあったのね」と話し掛ける。

 メディア経由のコミュニケーションはそれと異なる。たとえばTVのキャスターは人気商売ゆえに視聴者の全体的な動向を気にするだろうが、画面の前に座って番組を見ている個々の具体的な視聴者の顔色を窺えるわけではない。いかに視聴者におもねった言葉使いをしていたとしても、それは発話者の主体的な判断によっているのだ。このようにメディア経由のコミュニケーションには受話者との関係を調整しながらコミュニケーションを進めるという側面が抜け落ちる。

「メディア一世」が「二世」を育てる

 マスメディアへの接触量が多いと、こうしたメディア経由のコミュニケーションに慣れ、受話者起点のコミュニケーションができなくなるのではないかというのが金原の仮説だ。そして、より深刻な問題が発生するのは、受話者起点のコミュニケーション能力を十分に育めずに大人になった「メディア一世」の親によって育てられた「メディア二世」だと考える。「メディア一世」の親は子供が悩んでいても、その表情を読み取れず「なぜ勉強ができないのか」と責め立てる発話者起点のコミュニケーションを続ける。子供にしてみれば答えが自分では出せないから悩んでいるので理由を聞かれても説明できるはずもなく、親子のコミュニケーションは成立しない。

 自分の期待に応えない子供に業を煮やした親は、

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