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今回、なぜ「暫定的な事実像」が示されなかったのか

武田徹 評論家

 「福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、福島第二原発に撤退していた」。そう報じた吉田調書報道について、朝日新聞社は社内での精査の結果、「命令違反で撤退」という記述と見出しは裏付けがないと判断。間違った記事だったとして取り消しを決定した。

 間違いが発生した主な理由として(1)取材班は吉田調書を読み解く過程で評価を誤った(2)取材源の保護に気をつかうあまり情報を共有していた記者が少なく、チェック機能が十分働かなかった、の二点を挙げている。

 しかし、この分析で十分なのだろうか――。筆者は以前、『検証 福島原発事故 官邸の一〇〇時間』(岩波書店)という調査報道の書を書評で取り上げ、その記述スタイルを高く評価したことがある(『図書新聞』2012年11月12日号)。この本の著書は、今回の「吉田調書報道」を担当した一人だ。

註の付いたジャーナリズム

 同書では証言や記述の至る所に註番号がつけられ、章末頁を手繰れば、その箇所が誰の証言や資料に基づいて構成されたものかが分かった。要するに学術論文にも通じる、出典を明記しながら書いてゆくスタイルが採用されていたのだ。加えて取材の経緯説明を丁寧に行う註もあり、該当箇所の記述がなされるにいたった背景の文脈も分かるように配慮されていた。

 様々な憶測が駆け巡る原発事故直後の状況に対して、同書は、ここまでの取材ができた現状で、ここまでは間違いのないと認定できる事実像を示そうと努力していた。そして同書のスタイルが選ばれたのだと筆者は考えた。

 たとえば同書では、東電社長が官邸に撤退を懇願する連絡を取っていたが、菅直人首相がそれを強く否定した経緯が取材を通じて再現されている。もちろんそれも、その時点で掌握できた証言等にもとづいて導き出された事実像に過ぎない。というのも同書は註をつけたことにより、証言をそのまま引用した箇所ではそこで「描かれた事実」が、当人たちによって「語られた事実」以上でも以下でもないことを示す。

 立場を異にする複数の証言や客観的な状況証拠によるクロスチェックを経た事実であれば真実性が一定程度高まるが、いち早く読者に情報を届ける速報性を通じて公益的な存在となるジャーナリズムでは、十分なクロスチェックを待てないこともある。そうした「急ぎ足のメディア」であるジャーナリズムにとって、その段階では「語られた事実」をその取材の経緯を含めて正確に示すことが責務となる。逆にその段階で更に踏み込んで証言内容をあたかも真実として断定的に描けば、むしろジャーナリズムにもとる憶測を示すことになってしまう。

事実の領域確定が不可避

 出典を明示することによって、それが特定の人物によって「語られた事実」「示された事実」でしかないことを明らかにする。こうした「事実の領域確定」は報道の基本作業だろう。その時点でどこまでわかったかを確かに示すことで、事後的検証への道も開かれるのだから。

 にもかかわらず、実際の報道で同書のような丁寧な表記がなされることは珍しい。その時に何が起こったか、臨場感豊かに描く記事は多いが、秘匿しなければならない場合でもないのに取材源が明示されないことも多いし、取材の経緯が十分に説明されることも稀だ。そのため、その報道が、多くの証言や記録などのクロス・チェックのプロセスを経てなされたものか、或いは一人の証言や一つの記録にだけ依拠して書かれたのか、はたまた書き手自身が想像力で描いた創作の類なのか確かめようがない。

 それはジャーナリズムの多くが現状において、残念ながら抱え込んでしまっている弱さだといえる。同書はそうした弱さを、註を丁寧に書き込むスタイルによって乗り越えようとしている。その点で同書は高く評価されるべきだと筆者は書いた。その評価は今も揺るがないと考えている。

スタイルはなぜ変わったのか

 しかし吉田調書報道では逆の道をいったように感じる。吉田調書が公開に至る経緯や公開方法の妥当性については今後本格的な議論が必要だと思うが、今回の吉田調書報道の時点では、朝日新聞のみが独占的に調書を入手しており、一般的にその全貌が知り得ない状況であった。そうした状況において、「命令違反」の根拠になると言えば言える吉田証言の一部分は、引用されて示されているが、後に「間違い」の根拠とされるに至った証言箇所は引用されておらず、これでは調書全文が未公開である限りは事後検証が不可能だ。

 証言者の語る事実と、メディアが描く事実の間に一線を引き、証言の事実を、最終的な真実性の判断は留保しつつ暫定的に示す姿勢も失われており、引用した証言の範囲で「命令違反」を確定的な真実とし、現場を放棄した原発作業員への叱責に記事が終始している印象が否めない。

 同じ原発事故直後の状況を描きながら、なぜ『官邸の一〇〇時間』のスタイルが採用できなかったのか。筆者としてはその理由が気になる。紙幅があり、単著でもあった単行本では可能だったが、新聞報道では分量に制約があるし、組織体制で作成されるために新しいスタイルへの挑戦が難しかったということなのか。そうであるなら今回の件では、報道の内容を超えて、報道の形式をも対象にした分析も必要ではないか。