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シェンゲン協定崩壊か 後退する欧州合衆国の夢

右派ポピュリスト政党が勢いを増す中、メルケル独首相の孤立は深まっている

熊谷徹 在独ジャーナリスト

風前の灯火 シェンゲン協定

 欧州連合(EU)の基本理念を体現する制度が、難民急増によって崩壊の危機にさらされている。EU域内での移動の自由を保障していたシェンゲン協定が、風前の灯火となっているのだ。

 ドイツやフランスなど、欧州大陸に位置するEUの主要国は、1990年に批准したシェンゲン協定に基づき、1995年以降、人や物の移動を促進するために、国境検査を廃止した。

 去年の夏までは、この協定に加盟する26カ国の間で、陸路、空路によって他の国に入る時に、パスポートや荷物の検査が全く行われなかった。たとえば2015年以前は、ドイツからオーストリア、イタリア、フランスなどへ車で旅行する時には、国境の検問所がなくなっていたので、どこから国が変わるのかわからないほどだった。

 シェンゲン協定は、「欧州を1つの国のような連合体にすること」をめざす欧州委員会にとって、重要な国際協定だった。またシェンゲン協定は、域内のメーカーや運送業界が、国境での渋滞に巻き込まれることなく人や物を移動させることも可能にした。EUの統一市場の経済的利点は、シェンゲン協定によって裏打ちされていたのである。

各国が国境検査を再開

バスから降りて書類のチェックを受ける若い夫婦。赤ちゃんを抱いていた=2016年1月14日、オーストリア南部カラワンケン・トンネル、喜田尚撮影 バスから降りて書類のチェックを受ける若い夫婦。赤ちゃんを抱いていた=2016年1月14日、オーストリア南部カラワンケン・トンネル、喜田尚撮影

 だが去年の夏以来、ヨーロッパの状況は一変した。シリアやアフガニスタン、北アフリカなどからEU圏内に流入する難民の数が激増していることから、国境を一方的に閉鎖したり、国境でのパスポート検査を実施したりする国が増えている。

 去年の夏以降、ドイツ、オーストリア、フランス、ノルウェーなどが、難民の流入が多い国境で、入国者に対する検査を再開した。またハンガリーやスロベニア、チェコ、スロバキアも、「難民の入国をより確実にコントロールする」という名目で、一部の国境に防護フェンスや検問所を設置している。

 また、これまでドイツと並んで難民の受け入れに比較的寛容だったスウェーデンとデンマークも、「難民の数が、我が国の受け入れ能力の限界を超えた」として、今年1月から国境検査を開始した。シェンゲン協定は、「国家の安定を揺るがす事態」が発生した時に限り、最高2年にわたって国境検査を行うことを認めている。したがって、現在ドイツなどが実施している国境検査は、「暫定的な措置」とされている。

 だがドイツの保守派を始めとして、ヨーロッパ人の多くは「シェンゲン協定の前提はすでに崩壊している」と見ている。

 シェンゲン協定の前提は、EUの外縁部に位置するギリシャやイタリアなどの国々が、EU圏とそれ以外の地域を隔てる「国境」を厳重に警備することだ。シェンゲン協定が適用される地域に入った外国人は、全く検査を受けることなく、26ヶ国の間を自由に行き来することができるからだ。

 しかし去年エスカレートした難民危機により、EU周辺の「国境」の警備や保全は、事実上なきものとなっている。ギリシャやイタリアには、エーゲ海や地中海を渡って毎日数千人単位の難民が到着。南欧には多数の島が多いので、EUの「国境警備」は極めて困難だ。難民から金を取って、トルコなどからEU圏へ移送する「人間運搬業者」たちの中には、ギリシャの無人島に数百人の難民を置き去りにしたまま、逃走する者もいる。

 ギリシャに不法入国した外国人の数は、2014年には5万人だったが、2015年には18倍の88万5000人に増えた。

 ギリシャやイタリアの行政当局は、流入する外国人の前にお手上げ状態だ。多くの難民は、身元の確認や指紋押捺などの手続きを受けないままEU圏内に入り込み、車や徒歩で社会保障大国であるドイツやスウェーデンへ向かう。つまりEUの外縁部の「防衛」は、機能不全に陥っているのだ。

 現在ドイツやオーストリアが「暫定的措置」として行っている国境検査が恒常化した場合、シェンゲン協定はなし崩し的に崩壊する。

シェンゲン崩壊による莫大な経済損害

 現在ヨーロッパでは、シェンゲン協定が崩壊した場合、EUに甚大な経済的損害が生じるという意見が強まっている。

 シェンゲン協定は、EUの地域経済に大きく貢献している。この協定が国境検査を廃止したために、市民は毎日国境を越えて、隣の国の企業に働きに行ったり、買い物をしたりすることができた。欧州委員会によると、シェンゲン協定に加盟している国で、毎日国境を越えて仕事に行く人の数は、170万人にのぼる。また運送会社にとっても、国境の検問所で待たされることなしに物資を運搬できるという利点があった。

 だが難民増加による国境検査の再開は、人や物の流れを直撃しつつある。たとえばデンマークのCEPOS経済研究所によると、デンマークとスウェーデンを結ぶエレズンド橋は、毎日10万人の市民が利用しているが、この橋で国境検査が再開された場合の経済損害は、毎年3億ユーロ(390億円・1ユーロ=130円換算)に達する。

 またドイツとデンマークで国境検査が始まったことによる経済損害は、9000万ユーロ(117億円)にのぼる。

 欧州委員会は、国境検査が導入されることによって、トラックで外国に物資を運送するためのコストは、1年につき30億ユーロ(3900億円)増加すると推定している。

 またフランス政府の諮問機関「フランス・ストラテジー」は、今年2月3日に「シェンゲン協定に加盟する26カ国が国境検査を完全に再開した場合の経済損害は、1000億ユーロ(13兆円)にのぼる。これは、シェンゲン協定が適用されている地域の国内総生産の0.8%に相当する」という悲観的な試算を発表している。

大打撃を受ける自動車産業

 特に大きな打撃を受けるのが、自動車産業だ。

 ドイツの自動車メーカーは、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、イタリアなどの部品供給会社との間に、精緻な物流ネットワークを作り上げている。必要な時に周辺国の企業から素早く部品の供給を受けられる「カンバン・システム」を採用しているために、ドイツなどの自動車組み立て工場は、大量の在庫を抱えずに済む。

 だがシェンゲン協定が崩壊して、国境でのトラックの待ち時間が長くなった場合、各国の工場は再び部品のストックを増やす必要が生じる。このことは、自動車メーカーの製造コストを引き上げ、価格競争力に悪影響を与えるだろう。

 欧州委員会のジャン・クロード・ユンカー委員長は「シェンゲン協定に加盟している全ての国が国境検査を導入して、協定が事実上廃止された場合、人と物の自由な移動が著しく制限され、ユーロという共通通貨が持つ利点も大きく減るだろう。シェンゲン協定が死滅した場合の経済損害は、甚大な物になる」と警告している。

 ドイツ連邦政府のヴォルフガング・ショイブレ財務大臣も「今のままの状態が続いたら、シェンゲン協定が廃止されるまでに数年もかからないだろう。この協定が廃止されたら、ヨーロッパの経済統合は重大な危険にさらされる」という悲観的な見方を明らかにしている。

 アレンスバッハ人口問題研究所が去年12月に行った世論調査によると、回答者の64%が「EU域内では、90年代のような国境検査が復活すると思う」と答えている。

難民数の上限設定を求める保守勢力

ドイツのメルケル首相=APドイツのメルケル首相=AP

 難民の受け入れに最も積極的なドイツでも、保守勢力から「今年の受け入れ数を20万人に制限するべきだ。メルケル首相が応じない場合には、連邦憲法裁判所への提訴も辞さない」という声が出ている。

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