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[1]国家主義的か、批判的な自己検証か

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

はじめに

 たとえば、だれかが韓国の独立記念館(天安、1987年開館)や戦争記念館(ソウル、1994年開館)、さらには西大門刑務所歴史館(ソウル、1998年開館)を訪れたとして、そのあと、韓国の長い歴史のなかで、拷問がおこなわれた時期は、日本の植民地統治時代(1910-45)の35年にかぎられていたと思いこんだとする。だが、その理解はまちがっていると、その人をとがめるのは、なかなかむずかしいだろう。

 この3つの博物館による歴史処理の仕方は、問題をはらんでいる。どの国もたたえるべき栄光と同じく、暗黒の側面が多々あるものだ。暗黒の側面は外部勢力の支配下に置かれているときにかぎらず、国が独立しているさいにもみられるが、はたして韓国はほかの民主主義国よりうまく、そうした暗黒の側面と向きあっているといえるだろうか。

 朴槿恵(パク・クネ)大統領(1953年生まれ、2013年以降大統領)は、2015年10月に、2017年から公立中学、高校の歴史授業を国定教科書だけでおこなうと発表した(小学校ではすでに国定教科書が用いられている)。しかし、歴史のとらえ方という面ではむしろ心もとないものがある。

 それでは、韓国の博物館、なかでも国立の博物館は、過去の歴史をどのように取りあげているのだろうか。そこでは、何よりも愛国的な伝え方が優先され、国の言い分を阻害するような、ためにならない部分は都合よく見過ごされているのだろうか。

 博物館は人から影響を受けやすい年ごろの子どもたちに、一般的な歴史記憶を伝えるのに大きな役割を果たしているし、国の歴史を順にどう説明するかという基準にもなっている。その伝え方は、年配の市民から校外学習の子どもたちまで、さまざまな観覧者に影響をおよぼす。

西大門刑務所歴史館西大門刑務所歴史館=撮影・筆者
 韓国で調査をしているさいに、私はしばしば校外学習の生徒たち一行にでくわした。右の写真は、西大門刑務所歴史館にはいろうとしている子どもたちの一団を撮ったものである。

 たいていの韓国の博物館は、外国人に便宜をはかるため、展示物にふつう英語、時にその他の言語による翻訳の解説をほどこしている。

 韓国に関していうと、表示される言い回しが国家主義色の強いものになるか、それとも含みのある内容になるかは、博物館によるだけではなく、そのテーマにも依存している。

自己反省を迫る3つの博物館

 この論考は、2012年12月に新規オープンした韓国近現代史博物館で提示されている(あるいは提示されていない)言説を、前に述べた3つの博物館、さらには韓国のその他の博物館、そして日本の博物館と比較対照しようというものである。

 ここで言及される韓国のその他の博物館には、韓国国立中央博物館(ソウル、1945年設立)や国立民俗博物館(ソウル、1946年設立)、ソウル歴史博物館(1985年開館、のちに大幅改修工事をおこない、2002年に完成)や安重根記念館(ソウル、もともと1970年に開館していたが、2010年に新たな記念館が建設され、再オープン)、全南大学5・18記念館(光州、2005年開館)、5・18国立墓地の一角にある展示施設5・18追慕館(光州、1997年開館)、済州4・3平和記念公園内の一角にある済州4・3記念館(済州、2008年開館)が含まれている。

 全南大学5・18記念館は、民主化運動で大きな役割を果たした全南大学構内に置かれた小さな博物館である。5月18日は、1980年に政府が光州民主化運動の圧殺に取りかかった日にちを指している。5・18国立墓地と済州4・3平和記念公園がともに国の史跡になっているのは、その後の公式の見直し運動によるもので、ふたつの史跡は、政府が公式に過去のあやまちを認めたあかしといってよい。

 4・3事件とは、政府当局による済州島弾圧にたいする暴動をさす。その暴動は1948年4月3日に発生し(ただし長い前史がある)、これにたいし政府は6年間にわたり、残虐で無差別な報復に出て、反乱に加わった無辜の市民や参加者を2万5000人から3万人殺害するにいたった。こうして、4・3平和記念公園は、世界的に知られる虐殺事件の全容を知らしめる場所となった。

 この3つの場所では、解放後の独裁政権がいかに抑圧的であったかが率直に告発されている。それにより、これらの博物館は、国の歴史に自己反省を迫る場となっている。

「国民意識」と「愛国心」のための博物館

 しかし、ここで取りあげられるその他の博物館は、東アジアでくり広げられている記憶ないし歴史の戦いと密接にかかわっている。こうした記憶の戦いでは、しばしば被害を際立たせるために、国外の「何者か」に責任を負わせ、それにたいして、いくぶんか国内での英雄的抵抗を持ちだすのが通例となっているが、たいていの歴史家は、こうした記憶の戦いがはじまったのが1980年代以降とみている。つまり、記憶の戦いは、人びとが思うより、ずっと最近の現象なのだ。

 朝鮮半島のふたつの国と中華人民共和国、そして日本は、日本が近隣諸国を侵略し、植民地化した時期について、意見を異にしているだけではなく、国境問題でももめている。

 さらに古代の諸文明(たとえば高句麗)についても、その国境は近代の国民国家の領域と一致していないのに、はたして現代の国家が、ここは自分たちのゆかりの場所だと主張できるかという問題もある。こうした論争は、たとえば独立記念館のような博物館でも取りあげられている。

 独立記念館の開館時に発行された短い英語版ガイドブックには、「1980年代はじめの日本の教科書に見られた朝鮮史の歪曲が、韓国独立記念館の建設を促進する刺激となった」とあり、当館は「韓国人の国民意識を目覚めさせ、愛国心を促進することを目的としている」と書かれている。

 独立記念館は、1919年の三一独立運動を、現代朝鮮の誕生に決定的な影響を与えた契機として大きく取りあげている。そのいっぽうで、植民地時代には、広範な共存関係(結婚関係を含む)もあったはずだし、朝鮮に住む朝鮮人ならまず逃れられなかった日本人との協力関係もあったはずなのだが、そうした植民地時代全般の複雑な歴史については、ほとんど言及を避けている。

「民主化」という分岐点

 独立記念館が全斗煥大統領(1931年生まれ。在位1980-88)の独裁政権時に設立されたことは、けっして偶然ではない。

 全大統領は光州虐殺事件を引き起こすという汚点を残し、概して不人気であり、何とかして正統性を確立しようとしていた。それでも、かれは植民地時代の痕跡を有することのない(たとえば、日本人と協力したり、解放後に日本の協力者と手を結んだりしたことのない)、解放後初の大統領であった。支配者の日本人から独立を勝ちとろうとした朝鮮人の奮闘に主な焦点をあてた、この博物館の発起人になることができたのは、そのためだろう。さらに、かれはまた、たとえ一時的であったにせよ、みずからの大統領職を支えるために、韓国でいまも根強い広範な反日感情を活用することができた。

 堂々たる構えをもつ韓国独立記念館はいまも立っており、多くの来館者をひきつけているが、民主化後の公式の歴史では、全斗煥元大統領は好意的にとらえられていない。5・18国立墓地の記念館の展示に加えられている記録映画は、1996年にキム・ヨンイル裁判長が全斗煥と盧泰愚(1932年生まれ。1988-93年、大統領)の両元大統領にたいし、両者が1979年の軍事クーデターと1980年の光州虐殺事件にかかわったとして有罪判決を下すところからはじまっている。

 ここでは独立記念館でのような栄光を称える方式とは対照的に、国の歴史を自己検証しようという姿勢がとられている。現在も独立記念館は、一致団結して日本人に抵抗したという神話を伝えつづけている。しかし、こうした伝え方には1980年代後半以降、韓国民主化の時点から、強い疑問が投げかけられるようになっている。

 韓国近現代史博物館も、解放後の独裁政権にはっきりと批判的な姿勢をとっている。しかし、同博物館は、1961年の就任から1979年の暗殺にいたるまでの朴正煕(1917年生まれ)の独裁体制下で生じた経済発展についてもきちんと紹介している。また韓国では、独裁時代が否定されるのに応じて、民主化運動とその後の民主化時代がたたえられるという決定的な分岐点があるために、歴史のとらえ方がむずかしくなっている問題もあるのだが、それについても、近現代史博物館は目配りを忘れていない。

 独立記念館などの博物館が、あからさまに国家主義的な説明を流しているとすれば、解放後の時代に、今日の視点からみれば政府からひどい弾圧を受けた韓国の諸地域にあるその他の博物館は、きわめて批判的な伝え方を守っている。そして基本的な伝え方でみるかぎり、近現代史博物館は両者のほぼ中間に位置しているといえるだろう。  (訳・木村剛久)