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[1]「市民社会と公共圏」

貧困や不平等が拡大する近代の市民社会

齋藤純一 早稲田大学政治経済学術院教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、3月18日に早稲田大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

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講演する齋藤純一教授講演する齋藤純一教授
 本日が、早稲田大学で行う講義の最終回ということになります。今日は、「市民社会と公共圏」というタイトルにしました。山口二郎さん、千葉さん、杉田さん、中野さん、三浦さんとデモクラシーの話が続いて、ちょっと飽きてきているだろうなと思って、「市民社会と公共圏」にしたんですが、とはいえデモクラシーの話が半分くらいを占めています。よろしくおつき合いください。

市民社会論の系譜

 最初のスライド「市民社会論の系譜」をご覧いただきたいと思います。市民社会論には、大きく分けて、「市場モデル」「中間集団モデル」そして「公共圏モデル」と、三つの系譜があります。市場モデルは、恣意的に市場に介入する国家の統制をいかにはねつけて、市場の自律的な均衡、つまり「見えざる手」の調和を確保していくかに関心があります。

 2番目の中間集団モデルについては、フランス人政治思想家のトクヴィルが用いた「民主的専制」という言葉があります。つまり、国家に後見的な権力が集中し、市民が羊のように飼いならされる。そういう国家への権力集中に対して、中間集団であるアソシエーションが対抗的な権力となっていく。

 3番目が、公共圏モデルです。カントや、同じくドイツの哲学者であるハーバーマスの系譜です。カントにとっての公衆=Publikumというのは、国家の市民だけではなく、世界市民=Weltbürgerも含んでいる。私たちは自由な言論を通じて、本来の意味での公衆に語りかけ、国家の枠を超えていく。もちろん、国家の市民としては、立法に対して公開性の原理を要求していく。これもやはり市民社会と国家との緊張関係を重視します。いずれの系譜においても、国家との対抗関係、あるいは国家に対して市民が及ぼすコントロール、そういう意味合いがあったと言えると思います。

市民社会の今日の用法

 2枚目のスライドをお願いします。1990年代以降の市民社会の用法では、単に非国家的ではなくて、同時に非市場的な面が強調されます。国家とも市場とも違って、それらに対して、相対的なオートノミー(自律性)を持っている。そういう領域として市民社会を描こうとする議論が主流になってきている。ユルゲン・ハーバーマスとか、ジョシュア・コーエンをはじめ、熟議デモクラシーを擁護する人たちがこの立場をとっています。

 ちなみに日本でいえば、丸山真男も、早い時期に自律的な公共圏に注目した思想家の一人です。明治初期の明六社とか交詢社など。明六社というのは、例えば福沢諭吉や啓蒙思想家の西周とかがいたところですね。あるいは小泉信吉がいた交詢社。幕末から明治にかけて、自生的に公共圏が雨後の筍のように出てきた。

 ところが明治10年代くらいから、讒謗律など言論統制の法律ができて、公共圏としての機能を失っていきます。国家と切れた市民社会のアソシエーションが発展できなかったことに、近代日本の一つの問題があるというのが丸山の問題意識でもありました。国家や市場からある程度切れている、そういう公共圏を私たちがどれだけ持ちえているのか、形成しえているのか、そのあたりが私の問題意識です。

市民社会が直面する問題

講演する齋藤純一教授講演する齋藤純一教授
 3番目のスライドをお願いします。3と4で、今日の市民社会が直面している諸問題を社会・経済的側面と文化的な側面から見てみたいと思います。

 まず3のほうです。貧困および不平等の拡大について。今朝もやっていましたけれども、子どもの貧困が16.1パーセントに達しているということが報じられています。可処分所得の中位だと、いま244万円なので、その半分以下の122万円に世帯の収入が満たない場合、それを「貧困」と定義しています。一人親世帯の場合はもっと貧困率は高くて54.6パーセント、そういう数字が出ています。

 貧困が戦後なかったかというと、もちろんそんなことはありません。とは言え、私が学生の頃、1980年代の初めくらいには、一億総中流ということで、「私はミドルクラスの一員だ」という意識が、曲がりなりにも成り立つような時代でした。貧困が可視化してきたのが、90年代後半以降の日本の現実です。

 これは貧困の方の話ですが、他方、不平等(格差)を測る係数としてはご存知のようにジニ係数というのがあります。ゼロに近ければ近いほど、格差の度合いが少なく、1に近づけば近づくほど、格差の度合いが大きい。日本ではだんだんジニ係数が上昇してきている。単に格差が拡大しているだけではなくて、再分配の機能が非常に衰えてきている。

 これは税制の問題もあります。税とか社会保険を通じてどれだけ当初の分配に比べ格差が縮まるか。この再分配機能において、日本はOECD21カ国の中で最低水準にあります。つまり、税とか社会保険料によって、財の移転、資源の移転が行われていない。そういう社会になってきています。

貧困および不平等(格差)の拡大

 私は、貧困と不平等を分けて考えています。ノーベル賞を受賞したインド出身の経済学者、アマルティア・センの定義だと、貧困というのは、「deprivation=剥奪」を意味する。本来、ひとができてしかるべきことができなくなっているという状態を表します。例えば、バランスの取れた栄養を摂取するとか、移動するとか、ものが読めるとか、そういった誰もが、なしえてしかるべきことができないということが貧困である、と。そういう剝脱状態をなくしていくことはどのような社会にとっても最重要の課題ですが、かりに貧困の問題が解消されたとしても、大きな格差が社会に存続するとすれば、それはそれで大きな問題です。

 なぜ不平等が問題なのか。いくつか理由があります。一つは、経済的・社会的不平等が、当然、政治的な影響力の格差へと転換されていくということがあります。この転換過程を断ち切ればいいという話もあります。だから経済的、社会的にはいくら格差が大きくても、政治的な平等は確保できるという考え方もないわけではありません。ですが、現実の条件においては難しいと思います。やはり経済的な力というのは、政治的な力に翻訳されてしまうというところがあるのです。

格差で損なわれる〝自尊〟と〝健康〟

 それから、自分を尊重する感情とその基盤がだんだん失われてくるということも、もう一つの問題です。優位と劣位の格差が開いていく。丸山の言うように、抑圧は劣位のものに移譲されていく。しかも自己責任のイデオロギーが現に作用していますから、自分のせいでこうなった、そういう自分自身を尊重できない、ダメな人間だという形で自分を責めるということもしばしば起こりうる。

 これはリチャード・ウィルキンソンという研究者が実証的なデータをもとに語っていますが、格差の大きな社会というのは人々の健康を害する(『格差社会の衝撃』書籍工房早山)。貧困はもちろん健康に悪影響を及ぼしますが、彼が問題にしているのは不平等です。格差社会では人々はやはりストレスを抱えざるを得ない。

 そうすると、免疫機能も低下し、心身ともに脆弱になっていく。これは単に劣位の人だけじゃなくて、優位の人もそういうストレスに曝される。過度の緊張に満ちた社会に生きるということは、健康にもよくない。もし健康を取り戻そうと思うのであれば、個々の癒やしやセラピーだけではダメということになります。

隔離

 格差は空間的には隔離(segregation)に反映されます。居住地の隔離があります。それだけではなくて、教育を受ける場所とか、どこに食事に行くとか、レクリエーションにどこに行くかとか、あらゆる人生のシーンが階層毎に違ってくる。そうなってくると、自分と違う階層に属する人々とは接点がなくなってしまう。あるいは接点があるとしても、ごく限られた接点しかなくなってしまう。この職場にも、お掃除をしてくれる人とかいますけれども、深い交渉を持つかというと、そういうわけではありません。他者の姿が目に入らなくなってしまう。そういうことが起こってくれば、連帯の社会的な基盤には亀裂が走ります。

 日本にも「ゲーテッド・コミュニティ」というのがあります。ご存知の方はどのぐらいいらっしゃいますか? ハードな形態だと、壁で居住地を囲って、例えばセコムとかそういうセキュリティサービスが出入りをチェックする。例えばここに公立の学校をつくるというふうなアイデアが出てくると、つぶしにかかります。有象無象が出入りするようになると、この住宅地の資産価値は下がり、セキュリティも低下していく。だから、公共的なものは排除される。

 もうちょっとソフトな形態だと、24時間有人巡回監視みたいなものですね。壁では囲ってないけれども、常時、セキリュティーパトロールが行われる。こうなってくると、外部の社会、塀の外というのがあまりリアリティをもって感じられなくなってしまう。

 最後に、格差社会では「支配」の余地が生まれ、それが広がります。「支配」と言うとかたい言葉ですけれども、自分がコントロールできない他者の意思によって自分がコントロールされる状態にあることを指します。そういう状態に置かれると、例えば自分を雇っている人であれ、あるいは自分の夫であれ、自分をコントロールする力を持っている人の好意、それを獲得しなければいけなくなってきます。顔色をうかがうということが必要になってくる。不平等はこのようにして人々の自由を損ないます。

 ということで、貧困だけではなく、大きな格差というのは、現在の市民社会が直面している、かなり大きな問題であるということが言えます。

アイデンティティ・ポリティクス

 スライドの4を見てください。今度は文化的な側面を見てみたいと思います。20世紀の最後の四半世紀あたり、1975年あたりから、宗教とか、エスニシティーですね、民族性、生き方の違い。そういうものが強調されるようになってくる。自分たちの集団的なアイデンティティ、宗教的アイデンティティ、文化的アイデンティティ、そういうものを強く押し出すようになってくる。そういう現象は「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉で呼ばれています。

 これは一概に悪いとは言えません。例えばスコットランドがイギリスから独立しようとする。カタルニアがスペインから独立しようとする。それぞれ否定しがたい理由があります。ただ、政治的に見て問題なのは、傷ついた愛着、あるいは過剰な同一化という現象です。例えばヨーロッパ社会におけるイスラムコミュニティが、「お前たちは劣っている」という形で日々劣位の者として扱われる。そうすると逆に振れるわけですね。貶められたアイデンティティ、劣位とされたアイデンティティに、過剰に同一化するようになっていく。

 そういう愛着を「傷ついた愛着」(wounded attachment)という言葉で呼びます。ウェンディ・ブラウンという人の言葉です。私は、テロリズムには、貧困の問題だけではなく、このアイデンティティの毀損が大きく関わっている、と見ています。たわめられた枝は強くはね返っていく。

異集団を排斥する動向が強くなっている

 ヨーロッパにおいて、移民排斥の動きが非常に強くなってきています。典型はフランスの「国民戦線」。マリーヌ・ルペンという女性が、父親の跡を継いで、2代目の党首になっている。去年の11月に同時多発テロが起こった。12月に地方選挙があって、国民戦線は20パーセントの得票を獲得しています。お父さんのルペンも一度、第1回選挙で大統領候補として2位の順位まで行きましたけれども、ひょっとすると危ないですね。

 彼女は反イスラムを強く唱えている。「フランスをもう一回、フランス人の手に取り戻そう」と。これは、生活の条件が悪化している人、中の下、だんだん転落している階層、そこにアピールします。もう一度フランス人だけになれば、昔のような手厚い社会保障を私たちは取り戻すことができるかもしれない。そういうイメージを喚起しています。

 これはフランスだけではありません。ドイツでさえ、移民排斥を訴える集団が台頭してきています。日本でも在特会、「在日特権を許さない市民の会」というヘイトスピーチの集団があります。まだ大きな勢力は獲得していませんけれども、ないわけではない。

 お互いの文化の違い、生き方の違いを承認しあう。そういう理にかなった多元性(ロールズの言葉です)というのが、私たちが肯定すべき、獲得すべきものですが、むしろ理にかなっていない、暴力性を帯びた多元性の事実が目に入ってきているのが、現状ではないかと思います。承認はするけれども、劣ったものとして承認するといういわば「許容」としての寛容の限界も、移民排斥やテロリズムによって明らかになってきたように思います。(続く)

(写真撮影:吉永考宏)