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[1]「女性と政治と憲法と」

立憲主義にとって大切だった「個人」の発見

岡野八代 同志社大学教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2016年6月10日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

講演する岡野八代教授

 同志社大学の岡野八代です。きょうは立憲デモクラシーの会の最後の講座ということで、何度か足を運んでいらっしゃる方もいると伺っています。立憲主義あるいは憲法の歴史を、女性の観点から振り返ると、どういうふうに見えてくるかということを、皆さんと共有できればと思います。

 簡単な自己紹介ですが、きょうの話にはほとんど出てきませんけれども、わたしは日本軍慰安婦のことでも長い間、研究をしてきました。

 憲法の話の前に、少し日本の現実をみておきましょう。

このスライドは、各国の正規の女性労働者が男性と比べて、どれぐらい給与や賃金に差があるかを示した表です。アイルランドなどがマイナスになっているのは、女性のほうが、子供がいないと、平均するとたくさん給料を稼いでいるということです。例えばOECDの平均をみると「22」とありますが、子どもがいる女性は、男性の78パーセント、つまり、男性より22パーセント少なくしか稼げない。最初にこの表の日本の欄を見たときに、「61」という数字が何のことかわからなかったんです。日本の場合は正規で働いている25歳から44歳の女性たちで子どもがいると、同じ年齢層の男性と比べた平均賃金が、39パーセントしか稼げていないことを意味しています。この61%という数字は、他国と比べて突出しています。男女間格差で同じような傾向のある韓国でさえ、46%ですね。この表は、子供がいる場合、女性たちの賃金がいかに低いかを示しています。これは、日本の女性たちが置かれた社会的地位を確認しようと思って作ってきた資料の一つです。

立憲主義が生まれてきた背景は?

 先ほど言ったように今日は、立憲主義といった考え方が生まれてきた背景と、何が一番大切なのかというお話をしたい。皆さんご存じの樋口陽一先生と小林節先生の対談本をここに紹介していますが、このスライドに引用しているのは樋口先生の『憲法入門』からです。樋口先生の発言を引いて、「個人」という言葉を強調しておきました。「個人」という考え方は、長い歴史を経て、生まれてきたことを示したかったからです。個人という言葉は、憲法13条に出てきます。「すべて国民は、個人として尊重される」と。でもこの個人という考え方は、歴史のなかで発見されたものです。それが憲法にとって、立憲主義にとってとても大切だったということが、樋口先生がこういう形で説明しています。

フランス革命によって生まれた「個人」

 少しだけ読みますと、「近代憲法の掲げる人権という考え方は」、「人一般を発見した」。つまりそれは、「身分制による拘束と、保護の両方から解き放たれた個人の登場」を意味します。樋口先生はフランス革命によって、この個人というものがやっと誕生したと考えています。樋口先生はフランス憲法の専門家ですので、フランス革命の経験の中から生まれてきた憲法の大切さを、論じられている。個人の誕生の内実は何を意味するかというと、身分制度からの自由であるとか、宗教からの自由であるとか、結社の自由、表現・思想信条の自由などです。

 このことを私なりに図にしてみました。樋口先生がおっしゃっているフランス革命の非常に大きな、歴史的な意義を一枚の絵で説明するのも難しいのですが。個人という考え方がどうして生まれて、発見されないといけなかったのかということを、私なりに説明したのがこの図です。フランス革命以前の当時の社会とは、次のようなしくみでした。まず、ある領土、この場合はフランスですから、ルイ王家に対して、キリスト教の神から、「君が、この土地、フランスを支配しなさい」と、王冠を授けられた、権威をいただいている、と説明されていたわけですね。

王権神授説のもとでの身分制

講演する岡野八代教授
 なぜルイ王家がそこまで権威を持って、人民を支配できたかというと、彼らは「それは神様から正統な支配者として認められたから」と説明していました。これは王権神授説と呼ばれ、王の権力はキリスト教の神によって権威づけられています。それは、疑うことなき権威です。その下に、14世紀に始まる「三部会」がありました。貴族や僧侶が第一、第二身分を占め、第三身分には18世紀ぐらいから台頭する新興勢力、資本主義のもとで新しい事業を興してきた人たち、知識人層、つまり市民(ブルジョア)層が属し、その代表を、フランスの議会、つまり三部会という身分制議会に送っていたわけです。

 三部会の下に、財産がなく、選挙権をもたない農民や工作人、一番多くの人口を占めてきた人たちがいます。貴族や僧侶というのは土地を持っていて、農民や工作人が働いた果実を吸い上げていたわけです。ですから第一身分と第二分の人たちは、王権神授説の中で維持されていた身分制の中で、働かなくても身分制の下で富を蓄積できていました。

 この三部会、非常によくできていて、私たちの目の前にある参院選の3分の2の改憲勢力ということにも関係するのですが、貴族と僧侶が同じような利害関心を持っている。彼らが利害関係を同じくして、しかも優遇されていますので、三部会の決議は、第一身分、第二身分によって、つまり3分の2は常に、彼らの票に左右されていたわけです。3分の1の抵抗勢力は、議会で投票しても負け続けるわけです。

 この身分制度の中でもう一つ注目したいのは、この身分制度のもつ機能です。この制度の下に生きるすべての人は、たとえば何々村に農民として生まれ、農民として生きて、農民として死ぬ。職業選択の自由も、移住の自由もない。いま日本国憲法の国民の権利として書いてあるような様々な自由というのがないわけです。一生、農民は農民で、まさか貴族になるなんて夢にも思わないわけです。

 ですから身分制のもとで、人というのはどういう存在かというと、社会の中で与えられてきたその職にしたがって、社会でどんな、そしてどれだけの役割を果たして、社会でどの部分を占めているかによって、その人の価値は決まっていたわけです。農民は、農民としての価値だった。ですから全体の中の部分にすぎない人だったわけですね、ずっと。全体の中で、農民が果たしている役割で、その価値が決まっていました。これが身分制社会の中の人です。

神の権威を否定したフランス革命

 ところがフランス革命は、神の権威を否定した。神の権威が否定されると何が起こるかというと、神の権威の中でこそ支えられてきた身分制度そのものがなくなるわけです。

 日本もまた、近世には士農工商という確固とした身分制度、明治に入っても四民平等とはいえ、天皇制の下でやはり身分制度が残ったといってよいでしょう。そのために身分制度を髣髴(ほうふつ)とさせる、職分、分際、分相応、身の丈という言葉が残っている。つい最近も自民党議員の「巫女(みこ)のくせに」とかいう発言があった。その背景には、こういう身分制度、人を社会の中で位置づけられた役割で判断するという意識が、まだ残っていると私は感じました。

 このスライドにルイ16世の処刑の絵も描いてありますが、身分制を否定するために、革命の名のもとで多くの人たち、特に女性たちが、ヴェルサイユに向かってパンを求めて、デモをしたわけです。

 多くの血が流された革命を経て、人びとは、一個の存在として認められるようになりました。皆さんに注目してほしいのは、このIndividualという言葉です。英語では個人というのはIndividualとなります。Inというのは否定語なんですね。何々しないという意味。dividualというのはもともとdivide、分ける、分割するという意味です。ですからこのIndividual=個人というのは、これ以上分割できない。もし分割されて、自分の部分を取り出されたり否定されると、もう一個の存在としては存在できないような、そういう一つのかたまりとして、個人というものが発見されます。

だれとも交換できない価値としての「個人」

 いま私たちがそうですけれども、通常の社会の中では、社会でどう役割を果たすか、あるいは人と比べられたりして、自分の価値というのが相対的に決まっているわけです。このフランス革命によって、哲学的に発見された個人という考え方は、その人だけに備わる価値を示しています。それは、ほかの人とも比べられない。比較不可能な大切な価値をもっていて、つまり全体の中の一部ではもはやありません。その人自体が全体の一人。かけがえのない、だれとも交換できないような個人として発見されたのです。

国家は個人を尊重する存在として生まれてきた

 いま急に右手がなくなったら、右手がなくなった自分というのは、きょう右手がある自分と全然違う人生を送ることになるぐらい、私たちは自分の中の一部でも否定されたら壊れてしまう。もちろん、わたしたちの身体には個人差がありますから、そうした違いにかかわらず、いえもっと正確にいえば、違いを丸ごと尊重しなければならない、個別の価値が一人ひとりに備わっています。そういう個人にしか属していない価値、それは、自然権と言い換えることもできます。国家というのはこの自然権を守るためにこそ設立された。個人の発見の歴史的意味は、ですから個人に備わる自然権が目的であって、国家はそれを守るための道具でしかない、という考え方を生んだことです。立憲主義の考え方がこうして生まれてくるわけです。

 もちろん、社会的にはいろんな偏見があって、身分制をもう一回再興させようとするような団体だって、もちろん当時のフランスにはあったわけです。そういう中間団体を否定して、国家が、はっきりと個人を尊重する存在として生まれてきたというのが、フランス革命に見る憲法の歴史の端緒、始まりなんですね。先ほどの樋口先生の引用のなかでも、「身分制的な社会編成を解体して、国家が権力を一手に集中し、諸個人対国家の二極構造をつくりあげることが、必要となる」といわれているのは、そういうことを意味しています。

 私は、いつもの憲法集会でのお話なら、ここで終わるんです。「皆さん、個人の自由はとっても大事ですね」と終わるんですね。憲法24条にも「個人の尊厳」は出てきますね。ですが、ここには大きな、大きな、うそがある。つまり女性の経験から考えると、身分制度、中間団体が否定されて個人が誕生したというストーリーにはブラックボックスがあります。ここにも書いているように、家族は残っていたわけです。ほとんどの憲法学では、あたかも一人でポーンと生まれてきたような、丸裸にされたような個人、そこから立憲主義は語られるんですけれども。

革命後も残った家族の中の不平等

 実はこのあと何が起こったか。フランス革命のあとですね。ほかの身分とか、いろんな制度を否定したと言いますけれども、その中で家族は残った。では家族から女性たちは個人として抽出されたのか。家族も否定したのかというと、そうではなくて、皮肉なことに、むしろ女性は、この家庭内に拘束された。樋口先生がおっしゃる二極構造というのは、実は国家と個人ではなくて、家族の中の主人である世帯主と国家の二極であって、家庭の内部の構造、そこには女性や子供がいるのですが、その中の不平等というのは、完全に不問に付されました。政治思想史の中でも、家族の中の不平等なんて、そんなの政治の議論じゃないとされてきました。憲法学だって、何だそれはという感じですね。憲法は個人を扱います、個人の権利が中心ですということで、家族という現実を見てこなかった。

 このことは日本でも、非常に早くから指摘はされています。水田珠枝先生という社会思想史の大先輩も『女性解放思想の歩み』において、こんなふうに言っています。先ほどの三部会ですけれども1302年から開催されており、身分制当時、三部会の中では、農民の男性より圧倒的に貴族の女性のほうが身分高いわけですから、高位の尼僧たちは代表者を三部会に送る権利を持っていたんですね。革命の直前にも召集されるのですが、そのときも彼女たちは権利を行使しました。ところが不思議なことに、革命が開始され、三部会が消滅してできた国民議会、身分制を廃止してすべての国民に平等に政治的な権利を与えないといけないというフランス革命の精神は、女性たちを暴力的に排除しました。これは、不思議といえば不思議です。合理的な説明はできません。思想史上の、大きな研究テーマの一つでもあるはずなんですけれども。

 フランス革命では女性たちが手元にあった鋤(すき)とかいろいろな道具を持って行進しました。例えば自由の女神。フランスから、アメリカ独立100年を記念してニューヨークに送られますが、女神ですよね。男性はアンシャンレジームと言われたルイ王朝の象徴だったので、女性たちが新しい革命の象徴だったわけです。

(写真撮影:吉永考宏)