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[46]木綿のハンカチーフ/恋のハレルヤ

金平茂紀 TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

Sが先月21日に爆破したモスルの旧市街にあるヌーリ・モスク。取材に訪れた今月2日も、旧市街のIS支配地域では戦闘が続き、爆発音に続いて黒煙が上がった=杉本康弘撮影2017月2日IS(イスラム国)が爆破した、モスルの旧市街にあるモスク=2017年7月2日、撮影・朝日新聞社

モスルへ――最も過酷で無残な風景

8月8日(火) 朝3時起床。ホテルを6時半に出る。時差ボケどころではない。今日は非常に大事な取材の日だ。どうしても今日以外にはできない取材対象が入っている日なのだ。

 西モスルをめざす。気になるのは気温である。48℃とか50℃というのは、サウナ以外では経験したことがないので、どういうことになるのか。詳しいことはここに記すことはできないが、僕らは何とか西モスルに入ることができた。Eさんの尽力が実った。イラク軍のプレス・オフィサーの同行という条件の下での取材だ。

 今までにみてきた戦争による破壊後の風景の中でも最も過酷で無残なものだった。とにかく西モスルに至るまでの検問の数が半端ではない。少なくとも19か所あった検問箇所も、アルビルから東モスル前まではクルド軍のコントロール下、それを過ぎると今度はイラク軍のコントロール下に変わる。イラク軍の管轄下での行動は著しく制限される。そしてしばしば「腐敗」も横行しているとされる。しかし僕らはどうにか切り抜けることができた。

 有名なモスル博物館は、ISIS(イスラム国)によって占拠され徹底的に破壊し尽くされていた。有名なLamassu(ラマッス、人面有翼牡牛像=頭部は人で、体はオックス、さらに鳥の翼をもつ豊穣を象徴する聖なる生き物の像)が完膚なきまでに破壊されていた。歴史的な古文書や地図の類も火を放たれて焼かれていた。ISISはその破壊行為を何とビデオで撮影していた。この異常さは特筆に値する。確信犯的な文明の否定行為だと多くの学者や知識人たちが非難している(でも、よく考えてみれば、これに匹敵する文明の営みの根こそぎの否定は先進諸国の戦争行為によっても為されてきた。広島、長崎への原爆投下だって、そうではなかったのか。これは取材から戻ってきて幾分、冷静さを取り戻してから記していることがらである)。

 その後、旧市街の中心部にあるアル・ヌール・モスクに到達する。モスクの前には12世紀に建てられた斜塔(ミナレット)があったはずである。モスクもミナレットも無残な姿に変わり果てていた。このモスクで、ISISの宗教的指導者バグダディ師がカリフ宣言をした。その意味でもここは象徴的な場所なのだ。それが瓦礫と化している。

 瓦礫の下からは何か強烈な生臭い腐臭のようなものが感じられた。聞くと、まだ遺体がたくさん埋まっているという。瓦礫の上を何とか伝ってモスクの内部に入ってしばらくした時(午前11時半すぎ)だった。数十メートル先の真向かいの民家の方向から大きな爆発音とともにかなり大きな黒煙があがった。本能的に危なさを感じた。Eさんから念のために柱の陰に隠れるように指示された。迫撃弾の可能性もあったが、同行してきたプレス・オフィサーの説明では、この地区にまだたくさん残されているIED(仕掛け爆弾)の爆破処理をしているのだろうとのことだったが、本当のところはわからない。ちょっとばかり肝を冷やした。

 その後、旧市街から隣接地区に徐々に移動。西モスルの破壊状況は想像を絶していた。避難先から戻ってきた住民らにインタビュー。東モスルからアルビルに至る道路は大変な車の混雑ぶりだ。その路上に小さな子供たちが炎天下でものを売りつけている。戦後焼け跡日本の「浮浪児」たちの状況はこんなものだったのだろうか。外気の温度は48.2℃だった。クルド軍の管轄下に入ると何故かほっとした。精神的な緊張状態が続いていたので、車の中でどっと疲れが出て短時間だが眠りに陥ってしまった。

 アルビルに戻って、ホテルに戻る前に飲料水や緊急食料品の買い出し。夜、IOM(国際移住機関)イラク事務所の日本人スタッフの方々と打ち合わせ。早めに眠る。やはり暑かった。まだ外は48℃を超えていた。

8月9日(水) 炎天下。朝5時に起床。6時半に無理やりでもお腹に食べ物を入れて7時にホテルを出て、IOMスタッフと合流。今日は東モスルへ向かう。

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