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女性政治家が増えたあと、社会は?(下)

政治家も男女同数に近づけるべきだという「大義」は左右を横断して支持を得たが……

三浦瑠麗 国際政治学者・山猫総合研究所代表

候補者男女均等法が成立し、記念写真に納まる超党派の議員と女性団体のメンバーら=2018年5月16日午後、東京・永田町の衆院第1議員会館候補者男女均等法が成立し、記念写真に納まる超党派の議員と女性団体のメンバーら=2018年5月16日午後、東京・永田町の衆院第1議員会館

女性政治家が陥った「不幸」

 「女性政治家が増えたあと、社会は?(上)」に続いて女性政治家について考えていきましょう。これまで、日本の女性政治家の選出パターンは三通りほどありました。一つは、総理の子供のような「王朝の継承者」、二つめは、看護師などの業界団体や市民運動のような組織勢力からの選出です。三つめに、女性という属性を強調し、個人のキャラクターを生かして出馬する「ピン」の層。近年は三つめがだんだんと増えてきました。

 先述したように、「ピン」で活動する女性は支持層を形成し、それに頼る過程で左右を問わず「定食メニュー」を受け入れる方向に圧力が働きます。常に目立たなければならない、運動を行ってくれるコアな支持層を離してはならない、そういった重圧のせいで、どんどん本人の当初の選好を超えてイデオロギー化しやすいのです。

 すると、本来はフェミニズムに一番関心があった人が、経済政策や安保政策で左の「立場」を取らざるを得なくなる。逆に、本来は経済政策において保守政党を支持した人が、己の意思を曲げて反フェミニズム的言説を行うようになるといった「不幸」が生じるのです。

専門以外の発言をしない女性リーダー

 女性のリーダーが、これまで政界以外にいなかったわけでは決してありません。多くの尊敬される女性リーダーは、経済界や学界、官界で活躍されてきました。ただし、彼女たちはプロフェッショナリズムを貫き、自らの専門分野外のところでは一切、公的な発言を行わず、世論形成に向けた働きかけは行わないという姿勢をとってきました。つまり、プロ意識ゆえに、思想面でオーバーリーチせず、かつゼネラリストとしては発言しないという決断をしたわけです。これは、多くの男性リーダーのふるまいとは対照的です。

 彼女たちは、火の粉をかぶる立場にはありませんし、そうした覚悟も実際はないでしょう。彼女たちの多くは内心はリベラルだけれども、男性社会に適応することで自らの身を守ってきたからです。彼女たちは常に少数者であったがために、男性よりもさらにプロ意識を保ち、慎重であることを選ばざるを得なかったと考えることもできます。

 とすれば、女性が増えれば、ものを言いやすくなるのは自明の理です。

女性政治家の勝負服は白スーツ

蓮舫・立憲民主党衆院議員蓮舫・立憲民主党衆院議員

 女性が増えることの効果として、一つ例を挙げましょう。

 女性の政治家や論客の多くは、ここぞという勝負どころで白スーツを着る人が多い。蓮舫さんが一番有名でしょうが、小池百合子さんも、片山さつきさんも、三原じゅん子さんも、丸川珠代さんも、そうです。実は、多くの女性のキャスターもそうなのです。選挙特番などのここ一番で、彼女たちは白の衣装を選びたがります。白はダークスーツの男性陣の中でひときわ目立つ色だからです。

 けれども、選挙特番でもし女性が三人いて、みな白い色だったなら、特別感がまるでありません。つまり、彼女たちの衣装選びは、あくまでも少数者として存在することを前提にしているわけです。

 しかし、女性が半数を占める国会で、みなが白い色のスーツであれば、それはまるで個性がないものとして映ることでしょう。気づかないうちに「きれいな女性」という属性の型にはまってきた呪縛が、そこでいったん解けるはずです。

セクシズムはなくならない?

 女性が増えれば増えるほど、セクシズム(性差別主義)に捕らわれない候補も出てきやすくなることでしょう。けれども、完全にセクシズムがなくなる社会が訪れるとも言えません。

 各国を見渡しても、政治指導者の多くはかなりルックスがよく、外見が厳然とものをいうことは確かです。リーダーというのは見目麗しいものだという常識は、あえて口にこそされませんが、多くの国の現実ではあります。しかし、外見を利用していると非難されるのは決まって女性の候補です。

 誰も、クリントン大統領に、あるいはオバマ大統領に、格好いい外見を誇っている、男らしいイメージを利用して仕立ての良いスーツを着ている、あえて赤と紺のストライプのネクタイを着用して異性を挑発した、などと真面目に論評はしません。

 しかし、女性は決まってそうした批判に晒(さら)されるのです。なぜピンクなのか、花柄なのか、髪形はアップならアップで手間をかけたと言われ、ダウンスタイルでも髪が長いと批判されます。果てしなく揶揄(やゆ)され、非難され続けるのです。

 イヴァンカ・トランプさんのファッションが批判されたのも象徴的でした。フェミニストが強いアメリカでさえ、好きなワンピースを着ることが真剣な批判の対象となる、ということなのです。現状、目立つ女性に向けられている批判の多くは、真剣に男性に向けられることのないものばかりといっていいでしょう。

性的なものからの自由はみんなの問題

 人間社会において、パワー(=権力)はセクシズムを伴います。したがって、セクハラも、そのうち男女双方からなされるようになるでしょうし、性的緊張感が職場から消えることも、多分ありません。そうなってみれば、福田次官のようにあまりにひどい下品な発言はさておき、個人の主観だけでいやだと感じたこと(例えば髪切ったね、とか結婚してるの?とか)で、人を法的に裁けないこともだんだんと分かってくることでしょう。

 希望は、男女の力が均衡することで、自然と、一方的な野放しの発言はダメなことであるという認識が広がることにあります。そうした上に立つ者のふるまい、他者への思いやり、あるいは平等意識は、本来、初等教育や中等教育で教えていかなければいけないことです。

 個人の自由、性的なものも含めた自由。それは、女性の問題であるようでいて、本当はみんなの問題だからです。

財務省で「#Me Too」のメッセージを掲げて福田財務次官のセクハラ疑惑に抗議する野党議員たち=2018年4月20日財務省で「#Me Too」のメッセージを掲げて福田財務次官のセクハラ疑惑に抗議する野党議員たち=2018年4月20日

一方の性に抑圧的な社会習慣は続かない

 超党派の取り組みにより、男女の候補者を均等にするという考え方を導入したことで、日本女性の地位はいっそう向上することでしょう。しかし、それはこの法律によって担保されるという意味ではありません。ひとえに、この法律が全会一致で可決されるほどにまで、男女平等の考え方が保守政党にも浸透するにいたったことが大きいのです。

 全世界におけるMeToo運動の広がりから、日本とて決して切り離されているわけではありません。21世紀は「女性の世紀」と言われます。これまで、人口の半分を占める人びとが抑圧されてきましたが、もはやそうした一方の性に抑圧的な社会慣習には持続可能性はありません。そして、保守政党にとっては、男女平等の論点を自らに取り込むことが、女性の世紀においてはもっとも合理的な変節であるということができるでしょう。

 女性の政治家を増やし、フェミニズムが受け入れられる領域が拡大することは、必ずしもリベラルな社会をつくることを保証はしませんと、私は「上」の末尾で書きました。しかし、それはしごく当たり前のことなのです。女性がフェミニズムの論点から解放されてはじめて、本当の「国民的」な議論が始まるからです。