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【菅直人氏インタビュー(中)】 原発から逃げたら、日本は国として成り立たないと思った

聞き手=竹内敬二、服部尚(ともに朝日新聞編集委員)

――東電本店の状況は保安院も知らなかったんですか? 

 寺坂(信昭)さんが保安院長を辞めるときに、記者会見で、「いや、私たちも東電に早く人を送っておけばよかった」と言ったので、びっくりしたんですよ。結局、保安院も、東電から誰かを呼んできて、「これ、どうなってる? どうなってる?」と聞いていたんだなと。

――役所に呼び付けて説明させるだけだったということですね。

 平時ならそれも一つの行政のやり方かもしれませんが、事故が起きているのは東電なのに、東電の中のことが伝わってこない。そういう意味では「撤退」を言ってきたことが、いわばきっかけになった。撤退の話がなくても、「対策本部を作れ」と、もしかしたら何日かのうちには強引に言ったかもしれませんが。

福島第一原発の状況について会見する菅直人首相(当時)=2011年3月15日、首相官邸

――その時点ではまだ、そこまで考えていたわけではなかったと。

 「撤退」を言い出したので、政府がグリップしていなければ駄目だと。簡単に言えばそういうことです。それまでは、対策統合本部というのは法律的にも慣行的にも位置付けが難しかった。先ほども言ったように、民間会社が事故を起こしたからといって、行政が社長の代わりをやるわけにはいかないわけです。

 一般の住民が逃げるといったことは原子力災害対策特別措置法の権限になっているけれども、撤退ということは、本当のところ、どこが判断するのか。法律上は相当程度、事業者自身が判断できる体制でしたから。ただ、すでに一企業が判断できるような状況は超えていたわけです。撤退して、10の原子炉が放射性物質をまき散らすようなことまで、東電が「仕方ない」と言って決定できるなどということはあり得ない。

――それで本店に行かれたわけですね。

 1回は行っておかなきゃと。総理大臣が一企業に行くのは、ちょっと変かなというぐらいの感覚は、私だって非常識人じゃないですから分かりますが、ここは1回行っておこうと思いました。本部を作った以上は機能させなきゃいけない。機能させるには常駐させなきゃいけない。それと同時に、1回目の会議は向こうでやろうと思って、乗り込んだわけです。

――清水社長と執務室で話をした雰囲気はどうでしたか?

 まともに話ができたのは勝俣恒久さん(東電会長)と吉田昌郎さん(当時の発電所長)ぐらいしかいない。事故前から固有名詞で知っていたのは勝俣さんぐらいです。清水さんというのはそれまで全然知らなかったけれども、話がむにゃむにゃむにゃむにゃですよね。

 だから、そのときも、私が言ったことを、「わかりました、わかりました」とばかり言って、自分のほうから、「いや、こうじゃないですか、ああじゃないですか」ということは全くなかった。彼はコストカッターとして、勝俣さんが(評価して社長に)、置いた人ですから、勝俣さんの責任でもあるけど、事故のときの指揮を執るようなタイプの人では全くなかったんでしょう。

――民間事故調の報告書に、「吉田所長が細野(豪志)氏に『まだやれます』と答えた」とありますが。

 吉田さんがそう言ったという記録と、これはどこかのテレビで、もうこれ以上やる手がないから何人かの人間に、「家に帰れ」ということを言ったというのを見ました。たぶんイギリスかドイツか、どっちかのテレビです。現場もいろんな手を打って、やれるところとやれないところがあって、官邸から細野君か誰かが電話したときには、まだやることがあると言い、その前後で、爆発が起こり放射線量が上がって、もう打つ手がなかなかないというような状況で、吉田さんもいろんな思いがあったのでしょう。まだ何百人も現場にいるなかで、さらにドーンと格納容器が本当に壊れたら、もう逃げるわけにもいかなくなるから、そういうことを言われた時期もあったのかもしれません。

 「撤退」の判断については、私の感じでは、やはりトップでしょう。勝俣さんが絡んでないはずはないですよ。清水さんが自分で判断できるはずはない。それから、松永和夫事務次官(当時)が絡んでいる可能性は高い。ただ、彼らが、撤退した後どうなるか想定がなかったとしたら、本当に怖い話です。

 あえて言うと、

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