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[3]ネイチャー、サイエンス時代の向こう側

津田一郎 中垣俊之 石村源生 鳥嶋七実 尾関章

 科学とメディアの関係は2011年の3・11原発事故で揺らぎ、さらに2014年のSTAP騒動で混迷の度を深めた。その結果、科学ジャーナリズムのあり方だけでなく、科学者の情報発信がどうあるべきかについても、いま問い直されている。科学者と科学コミュニケーションの専門家、メディア人が徹底討論する。

《発言者》
津田一郎(複雑系科学)
中垣俊之(物理エソロジー)
石村源生(科学技術コミュニケーション)
鳥嶋七実(編集者、新書編集部在籍)
尾関章(科学ジャーナリスト)
☆津田、中垣は北海道大学電子科学研究所教授、尾関は同客員教授、石村は北海道大学Co STEP准教授(敬称略)。
☆2014年12月に北大構内で討論、今年に入って、採録原稿をもとに発言者が加筆修正した。
☆写真はいずれも、大津珠子・北海道大学Co STEP特任准教授が討論冒頭に撮影した。

尾関 ちょっと先に行っていいでしょうか。僕はメディアと科学のかかわりというと、科学論文誌のネイチャー・サイエンス体制が思い浮かぶんですけど、鳥嶋さん、ご本づくりをしていると、あんまり関係ないですかね。

鳥嶋 でも著者がネイチャーとかサイエンスのしくみなどについてを書いてくれたんで、それで知ったみたいなところがあります。論文には、どんなふうにインパクトファクターがあるのかとか。

尾関 ネイチャーとかサイエンスのことをあがめているような雰囲気というものを?

ネイチャーに出たら「きっと記事になる」

鳥嶋七実さん鳥嶋七実さん
鳥嶋 それは、なんとなく感じますよね。新聞の科学記事をつぶさに見てないからわからないですけれど、ネイチャーに出たらきっと記事になるみたいなのはありますね。で、科学全般のことは日々見渡すことはできないので、世界的な論文誌で認められたものが突発的にトピックとして出てきたっていう印象で科学ニュースには接している感じがします。なんていうか、今どういうふうな科学的な動きがジャンルごとにあるのか、みたいな見取り図をなんらもてないままに。

 まあ、ノーベル賞もそうだと思うし、ネイチャーに載ったというのもそうだと思うんですけれど、言ってみればお墨付きがついたものだけがニュースになっていって、そういうふうに接するしかないのかなって、いつもなんとなく疑問には思っているところですよね。

 科学者一人ひとりに話をうかがっていくと、なんとなくこのへんとこのへんが隣接分野で、こういうところでこういうふうに研究が進んでいるんだなっていうのが、少しずつであっても見えてくる気がするんですけども、そういうわかりやすく全般的な地図が見えるものっていうのが、科学に関してはとくにない気がする。

津田 でも昔はね、ネイチャーはそうだったんです。あのサイエンスは学会の雑誌ですから別ですけど、ネイチャーは商業誌で。

尾関 いわゆるオーバービュー、総説みたいものとして読まれた?

昔はランチのときに読む雑誌

津田一郎さん津田一郎さん
津田 そもそも粘菌の南方熊楠が個人でネイチャーに出した論文の数が一番多いんですからね。50本余もあるからね、あれいまだに破られてないわけでしょ。だから、ネイチャーってね、うちの先生なんか弁当食べるときに読んでいた雑誌なんですよ。それぐらい、気楽に、いろんなことがわかる。物理だけじゃなくていろんなことが載っていると。むしろ、物理とか数学は載らないくらいなのね。

尾関 わりと生物系が好きなんですよね。

津田 生物系が好きなんです。もともとそうなんですけど、自然科学の総合誌だったんですよ。で、毎週毎週出ます。マガジンですね。週刊誌です。だから、読み捨てられるわけ。

鳥嶋 なるほど。

津田 今、こんなことをやっている人がいるんだ、今こんなことをやっているんだ――それが使命だったんですね。ところが、20世紀後半、ジョン・マドックスという物理学出身の人が編集長になって、一計を案じたわけです、このネイチャーを世界トップのジャーナルにする。どうするか。彼は物理出身だから、フィジカルレビューレターズを一生懸命読んだ。

尾関 アメリカ物理学会の。

津田 物理学者の話題にのぼれば、広まるっていうことをよく知っているんですよ。数学者にアピールしても、数学者はしゃべらないですから。みんな黙ったままだから、広まらないんですよ。

 で、物理学者は議論を一生懸命やらないといけない職種なので、おしゃべりが多い。だから物理学者に言うと、あっという間にうわさが広がるんですよ。それで、彼はなにをやったかっていうと、フィジカルレビューレターズのレビューを自分でやったの。こんなのが流行ってるぞ、こんなのが流行ってるぞ、そしたら物理学者がネイチャーを読み始めたわけです。とくにアメリカ系の物理学者が、ネイチャーを読み始めて、瞬く間にネイチャーは売れるようになってですね、いろんな学会でも買う、図書館でも買う。で、そのうちじゃあ論文書いてって物理学者にいうと書いてくれる。そしてまたいい論文ですねってなると、みんながそこに出したくなる。ということで、ポジティブ・フィードバックがかかっちゃって、今に至っているわけです。

ネイチャー・サイエンス体制の力関係

尾関章さん尾関章さん
尾関 今の状態を僕がネイチャー・サイエンス体制というのは、どういうことかと言いますとね。報道解禁日、エンバーゴって一般に言うんですけど、木曜日にネイチャー発売、金曜にサイエンス発売で、その発売日にならないと世の中に出したらいけませんよ、と出版元がメディアを縛るんですよ。それから、研究者にも縛るんですね。これはメディアと研究者のそれぞれに対して、論文誌が力関係で上位にあるからです。新聞社は、事前にプレスリリースというのを受けて、今度こういう論文が出るというのを知って取材して記事にする。早めに知らないと自分のところだけ遅れちゃうわけですね。だからプレスリリースがどうしてもほしいと思って、わりと従順に従う。研究者のほうも、もしそれ破ったら……。

津田 論文載せませんって、出るまではどうなるかわかりませんって書いてあります。

尾関 さらににらまれたら、これから先もいろいろとレフリーを通じて判断するときに悪い方向に作用しちゃうとか、心証が悪いんじゃないのかとかを含め。これもまたそういう力になっている。

 日本だけじゃないんですこれ、僕が英国にいるときも、新聞を見ていてなんか大きい科学ニュースだなと思うと、なぜか木曜と金曜に多いんです。なぜそういうニュースは木曜と金曜が多いんだろうと考えてみると、ネイチャーとサイエンスの刊行日。これらの雑誌で向こうのメディアも騒いでいるんですよ。

 木曜と金曜に科学ニュースが多発している状態も不自然といえば不自然だけれど、もうちょっと先まで見通したとき、どういう問題が起こっているかと言いますと、さっき津田さんが言われたように、昔は記者と科学者の関係がもうちょっと深い関係があったっていう話になるんですね。

 1980年代、僕は大阪の科学部員で、毎日のように京大に通っていた。先生たちは、最初はわりともったいぶって1時間とか30分だけなら取材を受けると言うんだけれど、それで予定組んでいたら次のアポに進めない。帰してくれない。もう5時間ぐらいはふつうでしたね。その話をすぐ記事にしていたかっていうと、していないんですよ、まだ熟す前の研究ですから、ずっと寝かせるわけですね。で、もういいよ、今度論文書くから、今度学会で言うからとなったとき、そのタイミングで記事にしていたわけです。

 ところがね、今回のSTAPでも、たぶん日本の科学記者の多くは新聞に出た1月30日の直前、理研が記者会見をした28日までは、ほとんどあの研究のことを知らなかったと思う。

 80年代的風景で言えば、科学記者はたぶん小保方さんのような若い人のことまでは知らなくても、その研究室の大物のところまではよく行っていて、なんとなくこういうことがあるんだと気づかされていたのではないか。まだ詳しくは言えないんだと言われながらも、なんとなく雰囲気がつかめて、その研究の秘密は守りながらも、一般論で周りからもその分野の状況を聞いて吟味して、それで発表会見に臨むっていうことができたと思うんですよ、それが今はない、というのが科学記者にとって本当にかわいそうな時代だなと。

石村 それは研究というか、論文の量が爆発的に増えたということではないのでしょうか?

尾関 論文の量が増えたっていうのもありますよ。まずね、ネイチャー、サイエンスのことだけを言ってもそうなんですけど、全体でも。

石村 俯瞰できるような量ではなくなったと。

尾関 実は、80年代はネイチャー、サイエンスに日本人の論文が載るっていうのはそんなになかったんですよ。ネイチャーに載ったというだけでニュースになったんです、あのころって。それが今では、1回で10人ぐらい載ることだってある。

 そこにプレスリリースが整ってきたということもあるから、忙しくなっていることも事実です。だから直前になってプレスリリースがきて勉強して、取材に行って、場合によって今回のSTAPのように記者会見に行って、記事をきちんと載せる。科学記者は、そういう歯車の中に置かれているんですよ。

 どうですか石村さんの立場から見ると、研究者の側がセルフプロモーションで自分の研究を出していくとき、こういう体制っていうのはよいのか悪いのか。

発表の場、オルタナティブの可能性

石村源生さん石村源生さん
石村 これは私の癖というかパーソナリティで、物事を規範論的に考えるよりは機能主義的に考えて、規範は頭の中にあったとしてもそれが自然に実現するような機能をどうやってデザインして実装するかというような切り口で考えることが多いのですが、結局、ネイチャー・サイエンス体制を批判したところで、そのポジティブ・フィードバックが変わらない以上は非常に頑強なシステムだと思うんですよね。

 ただ、最近でしたらちょっと前に、著名な研究者でもCNS(ネイチャー、サイエンスと生命科学の論文誌セルを指して言う)には書かないと宣言した人もいましたよね、たしか。そういう方も増えてきていて、そういったジャーナルによる支配の問題や、ジャーナルの高騰で大学が費用を負担しきれなくなってきていることなどに対抗して、研究者が既存の著名なジャーナルではない、オルタナティブな発表の場を設けて、そこでお互いに評価し合うことによって信頼性と注目度を高めていくというようなことしていくべきじゃないかという動きは、おそらくかなりあると思います。

尾関 たとえば、「アーカイブ」。これは何かっていうと、いまアメリカのコーネル大学に拠点がある主に物理学、天文学の論文の発表サイトで、レフリーなしに投稿したらそのまま載せちゃう。自動的に載っちゃうわけ、自分で書いたブログみたいな。そんなことをやったら、よさそうな論文をかすめとって自分の論文にしちゃうってことが昔なら考えられるけど、今はそれが広く公開されているから、そんなことをやったらすぐわかる。すごい強いですよ、だから、物理論文の最初の発表の場がどんどん移っている感じもある、もっとも、それでも最後は論文誌に載せるんですよね。

津田 あのペレルマン、数学のポアンカレ予想を証明した人。彼なんてネットに載っけて終わりですから。

尾関 あのペレルマンの話がすごくおもしろくて、本当かどうか数学者たちもわからなかった。で、それを本当かどうかネットでみんなで議論した。

津田 あの分野の専門家が4人ぐらいいる。ほとんどいいところまで行っていた人が、その論文を読んで躍起になって。なんで証明が難しかったかって言うと、物理を使ってるんですよ、一部の証明に。エントロピー概念を使っているんで、それを数学者は知らなかった。これは何だと言って、世界のトップ4といえる人が寄ってたかって調べても最後のところが難しかった。でも、1年ぐらいかかって4人でチェックして、それで間違ってないなって。

ペレルマン支えたネットの友愛

尾関 僕ね。そのペレルマンのことを新聞の書評に書いたんです。そのときにね、ペレルマンは孤独なように見えるけれど孤独ではなかったって。数学界って、ある種のフラタニティというか友愛の精神で、みんなでネットで、どっかへ消えちゃった彼を一生懸命支えたわけ。

石村 オープンソースというか、集合知ですよね。実際、さきほどおっしゃったネット上で論文を公開して、他の研究者がどんどんチェックしていくというオンライン上のコミュニティーができてきています。「F1000 Research」では、論文は投稿後すぐにウェブサイトに公開され、実名のレビュアーが公開でレビューをおこなっていくというプロセスを採用しています。

 レビューとはちょっと違うのですが、「PubMed Commons」「PubPeer」といったウェブサービスでは、ユーザーが各論文にコメントを付けたり互いに議論できたりするような機能を備えています。また、「Faculty of 1000」というサイトでは、医学と生物学の分野で優れた業績をもつ数千人の研究者が、日々公開される大量の論文の中から、それぞれ自らが重要だと判断したものをピックアップして、簡単な紹介文とともにサイト上で推薦する、というフィルタリングが行われており、その分野の研究者にとって、掲載誌のインパクトファクターなどを参照しなくとも個々の論文自体の価値を直接知ることができる、大変有益な情報源となっています。

 それ以外にもオンラインジャーナルに次々と、論文のURLをシェアしたり、Facebookの「いいね!」ボタンを押すことができたりする機能が備わりつつあります。その動きと連動するように、各論文のソーシャルメディア上での評判を数値化して評価指標とするAltmetricsというような指標も生まれています。さらに、論文の公開・共有プラットフォームをSNSと組み合わせ、論文の相互参照・相互評価と研究者同士の交流を連動させたResearchGateのようなサービスもあります。

 このような「発表後評価」は今後ますます重要になってくると思われます。その価値の源泉は、高価な論文誌を出している出版社ではなく、研究者コミュニティーなのです。 このような、ネット上でのオルタナティブな論文発表・レビュー・評価・共有がワンセットでおこなわれるようなしくみが、どんどんできつつあるのではないかと思います。

尾関 石村さんの「ネイチャー・サイエンス体制がいつまでも続くと思うな」っていう問題提起はなかなか面白いなと僕は思いますね。

石村 だから、まあ戦っていくしかないと思うんですよね。

津田 だから物理とか、数学なんかとくに関係ないんだと思うんです。ネイチャー、サイエンスに載っている数学なんてほとんどない。載せられない、もっと長い論文書かなきゃ載せられないんです、ほとんど。ネイチャーの記事は短い。理論物理も関係ない。となると、僕らは価値を置いてない、ところが僕は脳科学と関係をもっているでしょ、そうすると脳科学の人はもうサイエンスにチャレンジして、落ちたらネイチャーにいって、それ落ちたらネイチャー姉妹誌に行ってとか、もうランクが決まっているわけ。どこまで落ちるかっていうところでやっているんです、みんな。今回は、ここまでで踏みとどまったとか。

 なんで、そんなに世間がよいっていうところにいい論文を出そうとするのか、僕はわからない。評価されたいっていうのはわかりますよ。若い人が評価されたいっていうのはわかりますけれど、学者っていうのは、いい論文だったらね、なんもないジャーナルに出して、そこをその論文によって一挙に有名にするほうがもっと楽しいじゃないですか。そういうふうになんでやらないのかなと思いますよね。注目されてないところに出せばトップですよ。

 理系の研究は、文系はちょっと違うと思うんだけど、理系の研究は自分のところから離れたらもう自分のものではないですから、たんに私の頭を通って出ただけだから、それはもう公のものなんですよ。世界中に渡すのですね。

石村 モーツァルトみたいですね。神の音楽を聴いてそれを表現して。

尾関 出たものはみんなが待望していたものかもしれないわけで、それはもうパブリックなんですよね。

 さっきの科学記者と科学者の関係で言えば、昔だったら科学者の研究室に行って1年間ぐらいずっと話しているっていうのと似たことを、いまネットでできなくはないんです。そういうのがあれば、もうちょっと科学のダイナミックな部分を科学記者や科学ジャーナリストが見ることができて、記者会見とはまったく違ってプロセスを見られるんじゃないのかっていう感じがする。

発表までの「事前」が見たい

鳥嶋 そうですね、その事前のところを見たいっていう気はしますね。どういうかたちでそれが展開されるかはちょっと難しいかもしれないですけど。

石村 実際、近い将来にはそういうことが実現するのではないでしょうか。それと関係する、ちょっと古い話なのですが、わりと昔から「Behavioral and Brain Sciences」という雑誌がありますよね。あれがおもしろいのは、もとの論文があって、それを20人ぐらいの大勢のコメンテーターに送って、その論文ついて評価でも批判でもなんでもいいんですけど、それぞれの観点からコメントしてもらって、さらにそれを受けた原著者がコメントに対してレスポンスする内容の文書を書く。その3段階がワンセットになって論文誌に載るというしくみをずっととっているジャーナルなのですが、あれなんかは本当に、今おっしゃったプロセスの一部分を公開していると言えるのかもしれません。それを紙の媒体で、わりと昔からやっているわけです。

津田 僕、自慢はね、それに出したことがあるんですよ。日本人はあまり出さない。コメントはするんですよ、日本人は結構。でも、あれは書いて載るまでに1年ぐらいかかるんですよね。やっと載ったかと思うと、コメントはほとんど批判なんですよ。お前のこんなのはなってないとかね。それで意を決して。本当はコメントの半分くらいのページ数の反論を出してくれると言われたんですけど、たまたま9・11があったときで出版社が混乱しちゃっていて、それで編集長も混乱して、僕は批判に対して2倍の長さの反論を書いたんですね。それがそのまま載っちゃった。それが自慢。

石村 私は、あの雑誌はすごいユニークな雑誌だと思います。まさに雑誌のなかで研究者コミュニティーをつくり出している雑誌だと思っています。そこでそういった武勇伝があったのですね。

津田 そのコミュニティーの人ってきついんですよね。知っているだけに、ここぞとばかりにやっつけてやるぞみたいな。少なくとも、興奮しているとは思うんですよね。でも、本来雑誌ってそういうもんだと。

 わりと同じようなことを考えていたって言うんですよ。俺はもっと考えていたのに先に出しやがってみたいな。だから、僕への批判というよりは、おれはこんなことやったぞって一生懸命宣伝するんですね。で、おまえはまだ不十分だとかね、そんな批判や主張に反論を書かないといけない。

石村 あれを大学院生などが読むと、アカデミックコミュニティーがどういうものかというのが大変リアルにわかるので、非常に勉強になりますよ。

尾関 最近は、ソーシャルメディアもありますね。ひとつ例を挙げれば、たとえばビッグサイエンスで、ヒッグス粒子発見のときだって、2012年の夏がヤマ場だったんですけれど、1年ぐらい前からときどき噂が出て、噂とは言うけれどももっともらしいかなりリアルなデータが出てくるわけで、それがツイッターなどで拡散した。

 で、それに対しては、ロルフ・ホイヤーというCERN(欧州合同原子核研究機関)の所長が、そういうものをわれわれは一切出していない、未成熟なものが出てしまっているんだとアナウンスしたり、内部向けに、そのへんのマナーをわきまえろとか、お叱りの言葉が出たことが公開されたりする。 しかしこの時代、ヒッグス探しでは6000人ですからね、研究者だけで。つまり、コントロールしきれないっていう面もあると思うんですけど。

石村 それ聞いて、まさにアップルの広報戦略と同じだと思いますね。MacRumorsというサイトがあるくらいですから。情報を小出しにしてそれでアテンション(注意)を十分惹きつけておいて、それが最高潮に達するころに正式に新製品を発表するという方法ですね。とくに唯一無二の実験装置などを保有していて、ほかでは絶対にキャッチアップできないようなところであればパブリッシュされる前に情報を多少出しても安全じゃないですか。だから少しずつ意図的にルーモア(うわさ)を出して、アテンションを高めておいて、それで一番効果的なときに発表できるようにタイミングを合わせていく。だから、所長が注意したというのももしかしたらシナリオ通りなんじゃないか、とも思います。

尾関 敵がいないっていうのは事実ですよね。ヒッグス探しは二つのグループでやっているんですけれど、基本的には両方が見つけないと見つかったことにならないから、競争相手も一応仲間ですよね、だから面白い世界。

 で僕が聞きたかったのは、ビッグサイエンスにはそういうことがあるんだけれど、ほかの分野で――僕はツイッターやっていないですけど――研究の途上にあるものが「あんなことやってるぜ」みたいに外に出ることはないですか。

プロの人がソーシャルメディアで語る時代

鳥嶋 STAPの論文が出たときは、すごくまったく素人だったから、こんなにもプロの人がツイッター上で解説してくれてありがたいなと。あの議論の活発ぶりはすごかったなと思います。

尾関 それは研究の途上というより、発表後の話ですね。STAPのときは1月30日に発表になって数週間くらいして、疑義を呈するコメントがソーシャルメディアに出た。これもまたレフェリーと言えるのかな、相当な専門家が見ているんだなって思いました。僕は論文を見ても、どこで切り貼りしているかはわからない。専門が違うと書いていることを信用して読むか、批判的に読んでも絵に問題があるとはふつうは考えない。

 「宇宙物理学者で、宇宙飛行士候補でもあった」と称する人が東大の建築学科にいたときも、経歴詐称疑惑が出て、ネット上で検証作業が進んだ。緻密にこれだけのウソがあるっていうのが書かれていったんですよ。

石村 それは確実にあると思います。そういったプロセスは学術知の磨きあげに資すると思うのですが、そんなに高尚なことでなくても、たとえば漫画やアニメなどで「トレース疑惑」と言って、他の作品や有名な写真などをただなぞって自分の漫画として発表しただだけみたいなものを、元ネタだと思われる画像を探してきて重ねて、ぴったりでしょみたいなことを暴く人がネット上には山ほどいるんですよ。非常にインテリジェントで専門性の高い人が、動機としてはその漫画のトレース疑惑を検証するのと同じで、たまたまインテリジェントなことをやっているということなのかもしれないです。

 ちょっと別の角度の話になるのですが、ネット上の集合知という意味で面白いと思うのが、オープンデータ、要するに政府の統計データだとかそれ以外のさまざまな学術調査だとか研究の生データの部分ですね。それを、マシンリーダブルなかたちで公開して、公共財としてほかの研究者や実務家にも活用してもらおうと、場合によってはそれを組み合わせて新しい価値を創造してもらうようなことをにらんで、元データの価値を二重三重に膨らませていこうというような、そういう動きがあります。

 たとえば学術論文でいうと、

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