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南部陽一郎さんの青春時代

偉大な足跡を、ご本人の言葉で振り返る

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

 南部陽一郎さん逝去の報は、7月17日に報道機関に伝えられた。7月5日(日)夜に亡くなられ、2週間近く伏せられていた。長年暮らした米国の住まいを引き払い、大阪府豊中市に戻って大阪市立大学と大阪大学の特別栄誉教授として若手との議論を楽しんでいた。94歳。天寿をまっとうされたと考えるべきなのだろう。

 南部さんの「私の青春時代」という文章が『数理物理 私の研究』(シュプリンガー量子数理シリーズ第2巻、丸善出版、2012年)に掲載されている。それを引用しながら、偉大な物理学者の足跡を偲びたい。

 南部さんが東京大学に入学した1940(昭和15)年ころ、素粒子物理を教える教授は東大にいなかった。近くの理化学研究所では、デンマーク・コペンハーゲンで大変革を遂げつつあった物理学研究の第一線に加わって帰国した仁科芳雄博士が最先端の素粒子物理の勉強会を開いていた。後にノーベル賞を受ける朝永振一郎東京文理科大学(いまの筑波大学)教授も参加して、朝永―仁科セミナーと呼ばれたこの勉強会から大きな刺激を受けた。戦争のために卒業を繰り上げられて陸軍に入り、レーダー探知の軍事研究に従事した。終戦後、嘱託として東大に戻ることができたが、住むところもなく、東大の研究室(305号室)で寝起きする生活になった。

 研究室での生活について言うと、電気とかガスも幸いにしてちゃんとありましたから、住むのにそれほど不便はありませんでしたよ。冬も暖房があったから、寒くはなかったですね。風呂については、銭湯もあったとは思いますが、戦争中の話なんですけど、焼夷弾が落ちたときのために、どの部屋にも1メートルくらいの大きな防火水槽みたいなものが備え付けられてあったんですね。それを使いました。アルミ製の洗濯用のたらいを買ってきてね。あと、水をかけた後に火を消すために使うムシロもたくさん置いてあったので、それを布団代わりにしたりしていました。それから、私は軍隊から復任したばかりで、背広も何も持ってない、靴もない。ただ、
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