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オバマ広島演説「物足りなさ」の理由

科学技術の「善用」「悪用」論にとどまり、核のリスクを過小視していないか

尾関章 科学ジャーナリスト

所感を述べるオバマ米大統領(広島市の平和記念公園、代表撮影)所感を述べるオバマ米大統領(広島市の平和記念公園、代表撮影)
 米国のバラク・オバマ大統領が被爆地広島で改めて「核なき世界」への決意を表明した。初夏の夕日が差し込む平和記念公園で、被爆者の代表らを前にしての17分間の演説。その一言ひとことが自身の政治信念から紡ぎだされた言葉であることは、口調からも表情からもわかった。私は、その真摯さに心を動かされたが、その一方で物足りなさも感じた。それは何だったのか。

 もう一度、演説全文を読み返してみると、その理由が浮かびあがってくる。要約すれば、核兵器を半世紀前と同様に科学技術の「善用」「悪用」論でとらえ、破局回避の条件として、人間の道徳心に過度の期待を抱いているように思えることだ。

 それがうかがわれる箇所を、朝日新聞の全訳(2016年5月28日付朝刊)から引こう。「科学によって、私たちは海を越えて通信を行い、雲の上を飛び、病を治し、宇宙を理解することができるようになりました。しかし、これらの同じ発見は、これまで以上に効率的な殺戮の道具に転用することができるのです」「科学技術の進歩は、人間社会に同等の進歩が伴わなければ、人類を破滅させる可能性があります。原子の分裂を可能にした科学の革命には、道徳上の革命も求められます」

 科学技術は「転用」によって悪の道具となる。だから、新技術をもたらす科学の進展があったときは、道徳もそれに見合うように進歩しなくてはならない、というのである。これは、戦後しばらく世界に広まった原子力平和利用論を思い起こさせる。

 現実の歴史では、原子核の分裂で解放された莫大なエネルギーはまず殺戮に用いられた。広島、長崎への原爆投下だ。そのことに対する反省から、同じ技術を「善」の道具に転用しようという主張が強まる。それは、政治信条の右左を問わず政治家にも科学者にもメディアにも共通する思潮だった。科学技術は価値中立であり、それを善用するか、悪用するかが問われている、という論理である。オバマ演説も、この枠組みの中にある。

 だが、私たちの同時代史はその破綻を物語る。それは、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故と2011年の東京電力福島第一原発事故が広大な大地を荒廃させ、そこに住む人々の平穏な日常を奪った現実をみれば明らかだ。長い歳月、汚染物質の不安が続く。原発は原子力の「善用」のつもりで建設されたにしても、結果として「害悪」の大発生源となりうる。科学技術は人がそれを何に使うかにかかわらず、巨大なリスクをはらんでいることが明らかになったのである。

 この稿では、原発の是非に踏み込むのは控えよう。核兵器に限っても、原子核エネルギーそのもののリスクは避けられない。

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