メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

妄想と現実のキャッチボール

映画『完全なるチェックメイト』とその原作の不気味な深淵

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 チェスのファンでなくても、天才ボビー・フィッシャー(Robert James Fischer, 1943-2008) の名は聞いたことがあるだろう。IQ187の異常頭脳を駆使して15歳で最年少グランドマスターとなり、長年世界王者を独占してきたロシアからタイトルを奪取。冷戦時代の米国で一躍英雄となった。奇跡的な妙手で定跡を変えたり、チェスから新ゲームを創案したりする独創性を示す一方で、彼には狂気と奇行がつきまとっていた。反ユダヤ的妄想に取りつかれて物議を醸し、引退後は亡命者として各地を転々。成田空港で逮捕されるなどさまざまな「事件」を起こしている。

 さてこのフィッシャーの伝記を読み(「完全なるチェス〜天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー著、文春文庫、2015年)、昨年封切られた映画も観た(邦題『完全なるチェックメイト』、エドワード・ズウィック監督、トビー・マグワイア主演)。思う所もあったので、併せて紹介したい(なお映画の原題は「歩の犠牲 (Pawn Sacrifice)」で、こちらの方が含蓄深いが、知識がない人には伝わらないだろう)。

盤上の米ソ冷戦

 物語の背景については、映画公式サイトの惹句が雄弁に語っている。まずは冒頭だけ引用しよう。

 アメリカ合衆国とソビエト連邦が、世界を東西二つに分けていた冷戦時代。武力で直接戦わない代わりに、スポーツも音楽もアートさえも、どちらが世界を制するかという両国のプライドと未来をかけた戦いだった。1972年に開催された、チェスの世界選手権はその最たるものだった。

 この世界選手権、熾烈な神経戦の末にボビーは、当時の世界チャンピオン、ボリス・スパスキーを破って米国に栄光をもたらす。その周辺で諜報機関や大統領までも巻き込んだ「冷戦」の緊張感がすごい。羽生善治名人(当時)ら著名人の感想もそのあたりに集中している。

1960年にボビー・フィッシャー=ウィキペディア・コモンズ

 ただ「それ以後」のボビーの実人生における狂気と不幸に、映画ではわずかしか触れていない。それでも彼の人生は、本物の天才だけが持つ眩いばかりの光と陰をまとっていることがわかる。作品の彫り深い魅力がそのあたりから来ていることは間違いない。

 今、チェス・将棋・囲碁で人工知能(AI)が人間の最高峰を破り、世界的に再ブームが訪れている。そんな中、書評・映画評としては、この作品の「人間側のドラマを訴えた」魅力にふれた所で終わりにするのが常道だろう。だが筆者が本当に動かされたのはここから先だった。それは物語の中で、米ソの冷戦と個人の妄想が増幅する部分だ。

どこまでが現実なのか?

 ボビーが米ソの冷戦に巻き込まれたというのは、恐らく誇張ではない。両国の諜報機関が動き、大統領までもが「フィクサーとして影で動いた」という。しかしいくら原作を深読みし、スクリーンを追っても、どこまでが現実でどこからが先がボビーの妄想なのか、判然としない。

 パラノイア(偏執)、デリュージョン(妄想)、サイコーシス(精神疾患)。物語の展開にはこうした疑念が渦巻いている。ボビーはもともと

・・・ログインして読む
(残り:約1808文字/本文:約3084文字)