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語らない被爆者、語れない二世、語りだした三世

72回目の原爆の日が過ぎて、個人的体験をつづる

高橋淑子 京都大学教授(動物発生学)

 72回目の原爆の日が過ぎていった。あの日、「もう緑は生えない」といわれた広島は、緑豊かな美しい平和都市になった。しかし、爆風と戦火に耐えたキョウチクトウの花の中には、鉛色の記憶が今も刻まれている。72年前にはまだ生まれていなかった私の中にも鉛色の記憶がある。それを書いたことはこれまでない。この夏、意を決してここにつづってみよう。

広島市の原爆ドームの前を流れる元安川にたかれたかがり灯=2017年8月5日夜、井手さゆり撮影

 私は被爆二世である。当時16歳だった父は、たまたま建物の影を歩いていたために、爆風で飛ばされて気を失うも、なんとか自力で歩くことができた。しかし皆実町(爆心地から少しだけ離れていた)の自宅に戻ると、母親、弟、妹を含む6人の家族は皆、体中にひどい火傷を負って生死をさまよっていた(私の叔母は半身ケロイド)。裏庭では、遺体があちこちから運び込まれ、そして燃やされた。その光は青く見えたという。

 父は、自分の父親つまり私の祖父を探すために、あちこち火の手が上がる中を祖父の職場である広島駅まで懸命に走った。防火水槽に近づいたら、その中にはすでに先客、つまり息絶えた人が折り重なっている。それでもその水を頭からかぶって、市電の枕木が燃える中を突破して広島駅に向かった。

 祖父は無事だった。「ああ、これで親父が家族のもとに帰ってくれる」と安堵したのもつかの間、「俺は同僚の介護で手が離せない、おまえは長男だから家族のことは任せたぞ、しっかり頼むぞ」といわれ、16歳の父はへなへなと座り込んだ。祖父の横にいた同僚は、窓から入ってきた閃光で腹が裂け、大腸が飛び出した。祖父も頭から流れる血が目に入るのを鉢巻で縛り上げ、その同僚の血だらけになった大腸を雑巾バケツの水で洗って、また腹に詰め込んだ。その同僚はまもなく息絶えた。

 家の壁が真っ黒になるほどの無数のハエと、死体や生きた体の傷口から次々にわくウジ虫、そして街中をただよう死臭の中で、家族は苦しみ抜いた。幸運にも広島駅から出た一番列車の貨車に乗せてもらい、祖父の実家の八本松まで送り届けられ、そこで村の人々の介抱を受けることができたので、なんとか一命をとりとめた。汽車ではなくバスで運ばれた人は、全員途中で絶命したらしい。

 戦後、爆心地に平和公園が整備され、原爆資料館が建った。父はすぐに足を運んだが、入り口で最初に目に飛び込んできたものは、父の母校の広島第一中学校(一中)の焼けただれた制服だった。父はそれ以上足を進める事はできなかった。爆心地にあった一中では、8時15分、朝礼のために校庭に出ていた全校生徒と教師が全滅だった。

 もうすぐ89歳になる父は、50歳を過ぎるまで原爆の話をすることはなかった。子供の私がいろいろ尋ねても、冗談っぽく笑い飛ばされるだけだった。だから私はずっと、「原爆は、世間で言うほどたいしたことではなかったんだ」と思い込んでいた(当時の広島では、今ほどの平和教育は行われていなかった)。

 ところが私が成人式を迎えた頃のある日、

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