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なぜ日本の検査・評価は形骸化するのか

満点主義がもたらす「いい加減体質」の蔓延

古井貞煕 豊田工業大学シカゴ校 (TTIC) 理事長

 高い品質を誇ってきたはずの日本の生産現場で、長年、検査不正が行われてきたことが明らかになった。そこでは、形骸化した、意味のない検査を続けるという膨大な無駄が行われてきた。

 いいものを作っているはずだから、検査をしたら合格して当然、合格させなければいけないという満点主義があったのだろう。さらに、そこに問題があることを指摘すると、上司の覚えが悪くなる、それよりも黙っていた方が得だ、不正もみんなでやれば怖くない(「赤信号みんなで渡れば怖くない」)という、いい加減体質が蔓延しているのであろう。

 検査でたまに不合格が出るのは当たり前で、そうでなければ過剰品質か、基準が甘すぎるということである。頻発しては困るが、たまに不合格が出るのなら、その都度対応すればいいのだ。不合格が出たら適切に対応できるようにしておくことが大切なのだが、それが起こらないはずという前提では、不合格は付けないという不正に傾くことになる。

形骸化している検査・評価

 品質検査と同様のプロセスとして、社会のいろいろなところで行われている「評価」があり、日本では、それも形骸化する傾向が強い。筆者が関係してきた日本の大学や研究機関での評価でも、満点の評価点がつくことに一生懸命になりすぎて、莫大な無駄な労力が使われ、その上、実際の改善につながるような効果が発揮されていない。評価で改善点が出るのは当たり前で、それに納得し、その後ちゃんと対応すれば改善につながるのだが、そのようにならない。

無資格検査が発覚したスバル=群馬製作所の生産ライン
 検査や評価においては、それをする人とされる人の、役割分担の明確化と、それぞれの立場への尊敬と、なれ合いでない信頼関係があることが重要である。協力して品質や組織を良くしていこうという意識がないと、効果が発揮できない。それがないままで、役所が制度を改めても、実効は上がらない。

 アメリカでは、大学教員の昇進や採用で、外部の一流の教員による「評価レター(reference)」が重要な役割を果たしている。その際、評価する人はフェアに評価をすることが極めて重要で、評価対象者の良いところと、不足しているところの両方を、できるだけ正確に書き、同程度の経歴の人の中で、何番目くらいにランクされるかを、きちんと評価する。そのようなフェアな評価ができる人かどうか、評価者も試されている。

 日本でも、他大学の教員による「推薦状」が、教員選考委員会で使われるが、「推薦状」なので、褒め言葉だけを書くことが多く、「評価」にならない

日米の大学評価の決定的な違い

 大学の質を保証するため、「大学認証評価」が行われている。アメリカでも日本でも、大学の研究・教育の質の向上と改善に役立てるという意味で、その目的に基本的な違いはないが、以下のように、実際の評価の仕方には、違いがあるように思われる。

 筆者の大学があるアメリカのイリノイ州を含む地域の高等教育委員会での評価基準は、次のように定められている。

基準1:ミッションが明確に表明され、大学活動の基準になっているか
基準2:高潔性・誠実性・倫理性・信頼性を持って大学活動が行われているか
基準3:高品質の教育と学修システムが提供されているか
基準4:教育と学修の提供とサポートに関して、評価と継続的改善がなされているか
基準5:今後、発展、改善し、ミッションを実現するに十分な財務的・組織的基盤と計画があるか

 一方、日本での評価基準は、

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