SYNODOS JOURNAL

八代嘉美
八代嘉美

ヒトiPS細胞研究はどこまで来たか

2011年09月27日

このエントリーをはてなブックマークに追加

京都大学・山中伸弥教授らがヒトiPS細胞の成功を報告してから、早いもので4年近くの時が経過し、また拙著『iPS細胞 世紀の発見が医療を変える』を上梓してからも3年がすぎた。技術革新の進歩の凄まじさを成長の早い犬になぞらえ、Dog year(犬の一年)などという表現があるが、iPS細胞研究は基礎・応用さまざまな進展があり、まさにDog yearな4年間で、今般旧版に加筆を行い、「増補版」というかたちでふたたび上梓させていただくこととなった。そこで今回はヒトiPS細胞の応用研究や 社会的な状況の変化の一端を整理することを通じ、拙著『増補 iPS細胞 世紀の発見が医療を変える』の紹介をさせていただきたい。

これまで、わが国では2001年の「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」 を制定する際の議論などをはじめ、政府の過剰な関与が日本国内の幹細胞研究を遅らせているとの指摘があった。しかし、2007年の山中伸弥らによるヒトiPS細胞の成功に際しては、それまでの科学行政では成し得なかったスピードで研究支援体制が拡充された。これは、ヒトES細胞指針が制定された際に生命倫理、医療経済などさまざまな観点から議論がなされ、問題点を理解していたからこそ、かえって速やかな対応ができたということができる。

わが国でヒトiPS細胞研究が強力に推進された理由には、ひとえに欧米とくらべ、ヒトES細胞研究が立ち遅れていたことがある。そのために文部科学省などは世界の多能性幹細胞研究の潮流をiPS細胞へとシフトさせることを目的として、2007年12月に研究支援策をまとめ、「iPS細胞研究等の加速に向けた総合戦略」として公表した。主な支援策としては、1 研究支援の戦略本部としてライフサイエンス委員会に幹細胞・再生医学戦略作業部会を設け、京都大学にはiPS細胞研究センターを整備、2 iPS細胞研究の加速のための研究費の確保、3 知的財産戦略の強化を掲げている。とくに07年度に開始された第2期「再生医療の実現化プロジェクト」では、iPS細胞研究について京都大学、東京大学、慶応義塾大学、理化学研究所の4箇所が拠点となってiPS細胞培養の講習会を行うなど、研究のみならず、技術普及でも日本の中心となっている。

これでヒトiPS細胞研究が世界の主流となった、ということであればめでたしめでたし、なのだが、そうはいかない現実がある。実用化のスピードということで考えれば、すでに臨床試験のフェーズへと進んでいるES細胞を用いた再生医療が絶対的に優位な状況にある。アメリカ食品医薬品局に新薬治験開始申請の認可を得ているものは、10年7月にジェロン社の「ES細胞由来神経前駆細胞による脊髄損傷治療」、10年11月にACT社(Advanced Cell Technology)の「ES細胞由来網膜色素上皮細胞でスターガルト病・加齢黄斑変性の失明治療の治験」がある。

さらに、iPS細胞が示した、「ある細胞から別の細胞を生み出す」という概念を利用し、終末分化を遂げた体細胞に複数の遺伝子を導入することによって、他の細胞系譜へと変化させる「ダイレクト・リプログラミング」という概念も広まりつつある。これは、再生医療研究のみならず、分子生物学、細胞生物学の思想に一時代を画する大きな成果であり、すでに皮膚の細胞から直接神経細胞や血液細胞などが作成されている。

また、死亡胎児由来体性幹細胞の臨床応用も積極的に行われており、米国Stem Cells社は、死亡胎児由来ヒト神経幹細胞(Hu-CNS SC)によって神経再生を目指し、神経変性などの中枢神経系症状を示す致死性疾患のBatten病を対象疾患とした臨床治験を行っている。2006年11月から2009年1月に実施されたPhase I試験では、移植された細胞が患者体内において安全に、かつ長期生存することが確認され、臨床応用へむけ着実に歩みを進めている。これらの技術で実績が積み重ねられれば、いくらiPS細胞が科学的に重要な発見であったとしても、産業や医療技術として生き残るという保障はない。

こうしたことから読み取れるわが国の政策の問題点は、大きくふたつある。ひとつは、iPS細胞以外の幹細胞研究についてどこまでフォローされているのかという点であり、もうひとつは産業化などの方策について、明確なビジョンがあるのかという点だ。前述の「再生医療の実現化プロジェクト」の第一期(2003年〜2007年)は臍帯血バンクの確立や造血幹細胞、神経幹細胞などの組織幹細胞を中心としたプロジェクトであった。第二期においては多くのプロジェクトがiPS細胞研究へと集約され、組織幹細胞への支援が相対的に薄まった。

また、ES細胞研究が依然として行いづらいことも、大きく見ればiPS細胞研究への障害になっているともいえる。2006年当時、公的に登録されていたアメリカのES細胞の株数は65株、日本では3株であったのに対し、2011年にはアメリカは89、日本は5とその差を引き離されている。こうしたところにも、日本のES細胞研究の厳しさがあるといえよう。

次世代シークエンサー(遺伝子配列やそれに付随する情報を大量・かつ迅速に読み取ることができる装置)の発達などによって、エピジェネティックな修飾状態や遺伝子の発現について解析を行い、iPS細胞とES細胞のさまざまな相違について言及する報告が増加している。分化能や遺伝子の修飾状態について多くの知見を積み重ねるためには、比較対象となる同人種間のES細胞株数が多いほうがよいのは自明であり、ES細胞研究の遅滞はiPS細胞研究にとっても不利な影響をあたえることとなる。

治験動向や論文の内容などを見ると、すでにアメリカはES細胞での臨床応用とそのための標準的な手法・株の確立という開発のフェーズを志向し、EUやイギリスは創薬応用や疾患研究のためのiPS細胞のバンク構築へと向けて猛烈に走り出している。さらに日本主導のiPS細胞による再生医療市場の構築を阻止しようとする思惑もみられるようになっている。

こうしたさまざまな応用研究の加速のほか、倫理的・社会的な問題も生起しつつある。1/31のシノドスジャーナル(危険な「幹細胞ビジネス」には厳しい視線を)で紹介した事例のほか、2011年7月には、金沢大学の研究グループが、「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」(ヒト幹指針)にもとづく厚生労働省の承認を受けず、学内の倫理委員会の承認のみで、幹細胞を使った臨床研究を肝硬変の患者らに行っていたことも明るみになった。

このグループは「幹細胞」という言葉を他の言葉に言い換えることでヒト幹指針の適用を避け、2009年2月〜12月にかけ、虚血性心不全と肝硬変の重症患者7人に対し、自己の脂肪組織由来の細胞を投与したという。こうした事例には、幹細胞生物学に携わる人間として怒りの念を抱かずにはいられない。堅実に研究を行い、さまざまな指針を遵守し、社会と協調して研究を推進しようとする大多数の研究者の努力をないがしろにするものだからだ。なににもまして、患者保護という大原則を忘れてその身体を危険にさらしてしまうような、極言すれば「人体実験」のようなやり口は絶対に許されてはならない。

再生医療や幹細胞研究が進展していくにつれ、さまざまな倫理的・社会的問題が提起され、議論の的となっていくことだろう。そのときに、研究者や行政は内側に閉じこもるのではなく、ネガティブなこともポジティブなことも伝え、堂々と議論に応じていかなければ、地に足のついた研究推進などは望むべくもない。

今回の増補分は、この4年で起こったiPS細胞の基礎研究の進展や、特許の成立や臨床指針の策定など、社会的・法的な状況の変化について整理し、科学の有用性や面白さだけを伝える一面的なものではなく、さまざまな面から再生医療研究、幹細胞研究について考える手がかりとなるものを目指した。ご一読いただければ幸いである。

増補 iPS細胞 (平凡社新書)増補 iPS細胞 (平凡社新書)
著者:八代嘉美
販売元:平凡社
(2011-09-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

シノドスのメールマガジンはこちらをクリック!!banner

プロフィール

八代嘉美(やしろ・よしみ)
1976年生まれ。慶應義塾大学医学部特別研究助教。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立を試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。