小原篤次
2010年09月18日
敬老の日を前にして、成熟社会を意識しながら、家族史を3点に分けて整理してみた。
父は1933(昭和8)年生まれ、母は先日亡くなったが、1935(昭和10)年生まれだった。そして1961(昭和36)年生まれの私は、親世代の経験を次世代に伝える責任を負う世代になった。両親の世代は、戦争による絶対的貧困の経験があるため、現在の「停滞の中の豊かさ」をより実感できる世代だ。
一つ目は、やはり戦争体験だ。
母親は1945年7月、大阪府堺市で空襲を経験し、生き延びた。低空飛行の米軍爆撃機B―29を「空飛ぶ畳」と表現する。当時、9歳の少女には、畳一枚くらい、それほど巨大に見えたということだ。「熱い、熱い」。近所の幼い女の子の背中に広がった火を消したが、全身やけどで手遅れになった。自宅向いの線香工場も焼夷弾で焼け、炎上した。その工場の瓦礫の一部が私の子供のころも残っており、私にとっては身近な「戦争モニュメント」だった。
しかし、母は戦後、英語スピーチコンテストに参加し、サークル活動はソフトボールでキャッチャーだった。米国文化にあこがれた「プリティーウーマン」だったのかもしれない。米国にとって、日本占領は数少ない成功例だ。米軍の攻撃を経験しながら、なぜ、英語に転向できたのか。空腹から開放されたことを理由にあげた。親族に戦死者がいないことも影響したのだろう。ただし、おしゃべり好きの母も戦争の話題になると、口が重かった。
また、母は若い女性に、恋愛の大切さとキャリア形成をアドバイスするのを好んだ。本人は、教員や薬剤師になりたかったらしい。なぜかと聞くと、「いつでも働けるから」。なるほど、結婚、出産、子育て、看病などライフサイクルごとに、退職・転職を余儀なくされていた。とくに女性にとって、進学、職業選択と制約が大きかった世代ゆえのアドバイスである。
二つ目は、親が死ぬことの教育だ。
最初は、小学3年生の冬休みの旅先だったと記憶している。親がいずれ死ぬことを強調する社会性教育だ。小学校6年生までに、親は居なくなる教育を叩き込まれた。子どもの自立を願ったのだろうか。
人生のゴールを強調する一方、両親は、老後の楽しみ、家財の処分、入院先、希望する葬式、葬式の出席者リストまで早いうちに準備し、子どもたちに託していた。「仕事第一」と、見舞いも不要という考えを繰り返した。子供に負担をかけない親心だ。
三つ目は、家族会議を通じて、資本主義と民主主義を模索したことだ。
我が家では、年金基金、投資信託など運用会社同様、資産運用検討会議が開かれていた。小学校の高学年から大学生までこの会議は頻繁に開かれた。子供の役割は、アナリストのようなものだ。最高経営責任者(CEO)は父、最高財務責任者(CFO)は母。ただし、決定は全会一致が原則だった。保有する現預金、住宅ローン残高の確認と、今後、成長する産業、企業が話し合われた。
「松下のライバルは東芝なのかシャープなのか」、「任天堂のファミコンはヒット商品になるのか」。ニクソンショック後、円相場の変動も始まっていた。個人としてはマイホームを購入し、日本が高度成長から安定成長移行した時期だ。
選挙前には、投票権のない子どもも参加し、候補者選びの会議が開かれた。家族で候補者や支持政党を拘束することはせず、それぞれの投票行動をオープンに議論した。
「一年目は試行錯誤内閣、これからは有言実行内閣」。菅首相の組閣後の会見は、具体的な政策への言及は少なく、代わりに「えー」、「あー」を連発した。9日に亡くなった母が見ていたら、「はっきりしゃべれ」、「渇!若い世代に譲れ」と叫んだことだろう。
会議の発案者は父親だ。製糖会社勤務の祖父が駐在した台湾で6年間、生活し、学校では、教育勅語と三民主義を記憶させられた。そして、九州への引き揚げ船で衝撃的な光景に出会う。船のトイレに大量の台湾銀行券が捨てられていた。戦後、連合国軍総司令部はインフレ抑制のため、海外引揚者が持ち込める貨幣を制限したためだった。
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