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【アジアな目】親から教えられた3つのこと

小原篤次

小原篤次 大学教員(国際経済、経済政策、金融)

 敬老の日を前にして、成熟社会を意識しながら、家族史を3点に分けて整理してみた。

 父は1933(昭和8)年生まれ、母は先日亡くなったが、1935(昭和10)年生まれだった。そして1961(昭和36)年生まれの私は、親世代の経験を次世代に伝える責任を負う世代になった。両親の世代は、戦争による絶対的貧困の経験があるため、現在の「停滞の中の豊かさ」をより実感できる世代だ。

 一つ目は、やはり戦争体験だ。

 母親は1945年7月、大阪府堺市で空襲を経験し、生き延びた。低空飛行の米軍爆撃機B―29を「空飛ぶ畳」と表現する。当時、9歳の少女には、畳一枚くらい、それほど巨大に見えたということだ。「熱い、熱い」。近所の幼い女の子の背中に広がった火を消したが、全身やけどで手遅れになった。自宅向いの線香工場も焼夷弾で焼け、炎上した。その工場の瓦礫の一部が私の子供のころも残っており、私にとっては身近な「戦争モニュメント」だった。

 しかし、母は戦後、英語スピーチコンテストに参加し、サークル活動はソフトボールでキャッチャーだった。米国文化にあこがれた「プリティーウーマン」だったのかもしれない。米国にとって、日本占領は数少ない成功例だ。米軍の攻撃を経験しながら、なぜ、英語に転向できたのか。空腹から開放されたことを理由にあげた。親族に戦死者がいないことも影響したのだろう。ただし、おしゃべり好きの母も戦争の話題になると、口が重かった。

 また、母は若い女性に、恋愛の大切さとキャリア形成をアドバイスするのを好んだ。本人は、教員や薬剤師になりたかったらしい。なぜかと聞くと、「いつでも働けるから」。なるほど、結婚、出産、子育て、看病などライフサイクルごとに、退職・転職を余儀なくされていた。とくに女性にとって、進学、職業選択と制約が大きかった世代ゆえのアドバイスである。

 二つ目は、親が死ぬことの教育だ。

 最初は、小学3年生の冬休みの旅先だったと記憶している。親がいずれ死ぬことを強調する社会性教育だ。小学校6年生までに、親は居なくなる教育を叩き込まれた。子どもの自立を願ったのだろうか。

 人生のゴールを強調する一方、両親は、老後の楽しみ、家財の処分、入院先、希望する葬式、葬式の出席者リストまで早いうちに準備し、子どもたちに託していた。「仕事第一」と、見舞いも不要という考えを繰り返した。子供に負担をかけない親心だ。

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筆者

小原篤次

小原篤次(おはら・あつじ) 大学教員(国際経済、経済政策、金融)

長崎県立大学国際情報学部准教授。1961年、大阪府堺市生まれ。同志社大学法学部卒、国立フィリピン大学修士。朝日新聞社、チェースマンハッタン銀行(現JPモルガン・チェース)、みずほセキュリティーズアジア初代株式調査部長、みずほ証券リサーチ&コンサルティング投資調査部副部長を経て現職。【2015年12月WEBRONZA退任】

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