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エルピーダ、時代に合わないビジネスモデルの不幸

木代泰之

木代泰之 経済・科学ジャーナリスト

 DRAMメーカーのエルピーダが会社更生法を申請した。原因は「歴史的円高」や「競争激化」だと経営陣は言うが、それらの波は企業経営ではいつでも起こりうる出来事だ。容赦のない言い方をすれば、DRAM一本やりという創業以来のビジネスモデルが予測通りに行き詰ったということだろう。

 エルピーダは1999年に日立とNECのDRAM部門を一つにして誕生したが、すでにDRAMは低価格で競争する汎用品になっていた。それを世界一コストの高い日本で生産するという不合理な競争をこの10年間続けてきた。各社の「お荷物」部門を寄せ集めた生い立ちも、そのビジネスモデルも、時代に取り残される宿命をはらんでいた。

 エルピーダ誕生に至る過程を振り返っておこう。DRAMは1971年にインテルが1Kビットの製品を作ったのが最初。しばらくは米国企業が独占していたが、やがて日本企業が参入して80年代半ばにはシェア8割を占めた。

 当時の日本企業の勝ちパターンは、技術革新によって高品質にし、差別化する。同時に量産化と生産性アップでコストダウンを続け、追随する他社を振り切って利益を確保する。その利益を次世代の研究開発に回すという循環。これがうまく回転していた。

 この時期(70-80年代)は大型コンピューター(メインフレーム)の全盛期にあたっていたが、90年代に入るとインターネットやパソコンの普及という大変動が起きた。DRAMは、メインフレーム用には高性能が要求されるが、パソコン用には一定の性能さえあれば低価格であるほどよい。高級品だったDRAMは簡単に作れる汎用品に変化したのである。

 しかし高品質路線を走っていた日本メーカーは、技術を逆向き(汎用品志向)に転換することができず、もたつく隙をサムスンなど韓国勢に突かれた。韓国にはメインフレームメーカーがなく、最初からパソコン用のDRAMを生産していたので、変革の大波にうまく乗ることができた。

グラフ1

 サムスンは不況の時にも、李健煕(イ・ゴンヒ)会長の決断で、半導体技術のロードマップ(行程表)をもとに大胆な量産投資を続けた。DRAMが16Mから64M、256Mと進むたびに、日本勢の鼻先を抑える低価格でシェアを奪っていった。

日本メーカーの絶頂から衰退への変化は、他産業では見られないほどの激しさで、90年代後半にはすでに苦境に陥っていた。エルピーダには2003年に三菱電機が参加したが、それ以降の決算(表1)から分かるように、最終損益が黒字になったのは4回のみ、あとは大幅な赤字だ。

表1

 2009年には経済産業省の支援で、日本政策投資銀行から300億円の出資と1000億円の銀行融資を受けた。おかげで2010年と11年はかろうじて黒字にしたが、

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