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マツダ復活への道 技術優先主義との決別を

永井隆

永井隆 ジャーナリスト

拡大小型スポーツ用多目的車「CX―5」とマツダの山内孝社長=2012年2月16日、東京都内

 マツダの経営が厳しくなってきた。2012年3月期は、純損失が1千億円と4期連続赤字となる見通しである。

 超円高が続くなか、マツダの国内生産比率は約7割と業界では最も高い。今後、資本増強により海外生産拡大を進める一方、低燃費エンジンなど環境技術の開発投資を拡充させていく方向だ。また、既にロータリーエンジン(RE)搭載車の販売を、今年6月で終了させることも打ち出している。

 それにしてもなぜ、超円高、古くはオイルショックに伴う燃料高など、経済環境が変化する度に、マツダの経営は軋むのか。2008年までフォード・モーターの傘下にいたため、海外生産など重要な決定を自由にできなかった側面はあった。だが、それだけでもない。

 マツダの技術を象徴するのは、良くも悪くもRE。そのRE開発に着手したのは1960年代。創業家である当時の松田恒次社長(実質的にはマツダ二代目社長で、広島カープのオーナーも務めた)が主導したが、会社の自主独立を守ることを目的としていた。

 というのも、通商産業省(現在の経済産業省)には、特定産業振興臨時処置法案に代表される、自動車業界をトヨタと日産の2社、あるいは3社にする構想があった。資本の自由化を受けて日本に進出するであろう米ビッグスリーから、日本の自動車産業を守る保護的な施策だった。名門のダイハツ工業がトヨタに、旧財閥の富士重工業が当時は日産に(現在はトヨタ系)、それぞれグループ入りしたのはこの流れである。

 恒次社長のモットーは「技術は永遠に革新である」。3位グループのメーカーとして生き残るため、マツダはREという技術革新(イノベーション)に賭けた。その結果、世界で初めてREを量産化する(最初の搭載車は67年発売のコスモスポーツ)。回転運動によってエネルギーを作り出すREは、ピストンの上下運動(往復運動)を回転運動に変換する一般のレシプロエンジンと比べて、エネルギーロスが小さい。さらに、小型軽量、高出力、静粛、排ガスにNOx(窒素酸化物)が少ない、といった特徴があった。

 70年代前半にはマツダのREは次世代の有力なエンジンと目され、中学の技術家庭科の教科書にも紹介されたほどだった(筆者は教科書から、広島にすごい会社があると感じた)。

 マツダはRE技術を会社の中心に据え、企業スローガンを「ロータリーのマツダ」に変更。73年5月には、「ルーチェAP」が日本の低公害車優遇税制適用第1号に国から認定され、「低公害なロータリー車」の人気は上昇していく。

 しかし、73年にオイルショックが発生し、事態は暗転する。クリーンであるが燃費性能に劣るRE車は在庫の山となった。マツダはたちまち赤字に転落し、経営危機に直面してしまう。創業家の社長は降板し、メインバンクの旧・住友銀行(現在の三井住友銀行)が経営再建に乗り出す。住銀主導によりフォードとの資本提携が発表されたのは79年5月だった。

 自主独立を守るための技術が、逆に独立性を崩壊させたのは何とも皮肉である。技術優先主義が招いた予想外の蹉跌だったが、マツダの傘下企業としての長い旅が始まる。

 76年からは「AM(オールマツダ)作戦」が実行される。これは、技術開発や生産、総務など、日頃は内勤の社員が全国の販社に出向してセールスに回るという作戦。3年間続けられ、出向者は約7900人を数えた。職務の権限と役割とが明確に決まっている欧米企業では考えられないだろう。

営業がうまくいかずに体調を崩した人もいたが、一方で思わぬ成果が生まれる。80年2月に発売された新型「ファミリア」(通称「赤いファミリア」)が、大ヒットしたのだ。AMに赴いたエンジニアが、営業を行ったことで消費者から車への要望を直接聴く。これを持ち帰り、新車開発に生かしたのである。

 赤いファミリアは、ソニーのウォークマン、チューハイなどとともに、当時の若者に人気となった。一方で、RE搭載の「RX7」が、お手頃価格のスポーツカーとして人気となる。

 80年代、マツダは欧州を中心に売り上げを伸ばす。マツダ車はドイツやオーストリアで受け入れられ、日本メーカーでは欧州NO1となっていった。

 しかし、2回目の経営危機が訪れる。業界3位争いをしていたマツダは、80年代後半のいわゆるバブル期に、国内販売をそれまでの2チャンネルから5チャンネル体制にする。「打倒・トヨタ」を目指したが、90年代に入りバブル経済は崩壊。積極策は裏目に出て、94年3月期には480億円の経常赤字に転落する。積極策の背景には、銀行からの巨額の借り入れがあり、販売台数を大幅に増やす必要もあったとされる。

 96年にはフォードの出資比率は25%から33.4%となり、フォード出身の社長が就任。住銀主導により完全なフォード傘下となる。販売が一時落ち込み大きなリストラを実行し、再び危機を脱する。今世紀に入ってからは、プロパー社長が登板し経営は一時安定していく。逆にフォードは経営が厳しくなり、マツダの経営から離れていった。

 国の政策、救済に入ったメインバンクとの攻防、そしてフォードとの関係…。これらにより、マツダの経営は節目ごとに翻弄されてきた。

 鈴木修スズキ会長兼社長は、かつて次のように言った。

「いつも黒字であることが大切。でないと、 ・・・ログインして読む
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筆者

永井隆

永井隆(ながい・たかし) ジャーナリスト

ジャーナリスト。1958年生まれ、群馬県桐生市出身。明治大学卒。1992年、勤務先の新聞社が実質的に経営破たんし、新聞を休刊。これに伴い失業を経験。93年にフリーで独立。新著に「サントリー対キリン」(日本経済新聞出版社)。著書に「人事と出世の方程式」、「国産エコ技術の突破力!」、「ビール最終戦争」、「敗れざるサラリーマンたち」など。

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