2012年07月03日
――「被災地でワークショップができないか」。「復興アリーナ」は永松さんからいただいたこの提案からはじまりました。そもそも永松さんはどういった経緯で、震災復興に興味を持たれたのでしょうか。
永松 ぼくは阪神大震災から3年後の98年に、博士後期課程に入りました。その年は神戸の経済がもっとも落ち込んでいた時期で、この経済の落ち込みは、どこまでが震災の影響で、どこまでが平成の金融危機によるものなのかに関心を持っていました。国の復興政策を決めるさいに、こうした切り分けが必要だと思っていたんです。
こうした研究を続けていくうちに、いくつかの発見をしました。もっとも大きかったのは、被災者にとって震災の影響であろうが、不況の影響であろうが、自分たちが経済的に苦しんでいることに変わりはないということです。そして、震災は新しい問題を生みだすのではなく、むしろ今ある問題を加速させたり、えぐり出したりするものだということに気がつきました。そういうこともあって震災と不況を切り分けるのではなく、全体を考えるほうがいいのではないかと思うようになった。
また被災地の経済復興のなかにはトレードオフの関係が潜んでいることを発見しました。復興需要で景気が良くなることは経済学の古典的常識です。ただ、神戸の場合はそれほど期待されたほどではなかったんですね。なぜなら復興需要が被災地内に十分落ちてこなかった。むしろ東京とか、全国に仕事が行ってしまったんですね。たとえば建築資材価格が上昇するといった現象が、関西ではなくて東京で起こったんですよ。
それでは、そうした復興は間違いだったと言えるか。すべての復興事業を被災地の事業者だけでやれば被災地にお金が落ちますが、それでは復興のスピードが遅くなってしまう。たとえば、道路のようなインフラは、早急に復旧されなければ、すべての経済活動が滞ってしまいます。地元業者に発注すれば経済が潤うといった単純なものではない。こういった発見がたくさんありました。
■改めて研究をやり直す
――そうした発見を活かす機会はあったのでしょうか?
永松 2004年に中越地震が起きます。このときに、神戸の経験から、「救援物資をもらうとモノがあふれてしまい、地元でモノが売れなくなり仕事がなくなる。経済復興のことを考えるなら物資を受け取るのは控えたほうがよい」と提言しました。しかし、「言っていることはよくわかるが、地元に提供できるだけの力があるのか。救援物資を受け入れないで、もしも足りないなんてことになったらどうするんだ」と言われて、提言を受け入れてもらえませんでした。
これはぼくにとって本当にショックなことでした。結局、ぼくが今までやってきたことは机上の理論でしかなかったんです。一生懸命、研究をして博士号をとって「神戸の経験がある!」と言ってみたものの、まだ現場で使えるほどの知恵にまで練り上げられていなかったことを痛感しました。
そこで改めて研究をやり直しました。
まず小千谷市をフィールドにして、商工業者に、「震災後いつ営業を再開したか」「救援物資は売り上げにどのような影響を及ぼしたか」といったアンケートをとり、地元の人に直接話を聞きに行きました。ここでもやはり大きな発見をしました。それは、私たちはつい、震災で何もかもなくなってしまったと思いがちですが、じつは意外と営業を再開しているところもあるんです。ただし、彼らは自分たちが営業を再開したことを伝える手段がありません。だから、結局営業していないのと同じことになってしまうわけです。
古典的な経済学の理論では、完全情報を前提とします。どこで何が売られているかについてすべての人が知っている。でも被災地ではまったくそんなことはありませんでした。取引関係にも変化が起こるし、災害直後の被災地の経済は平時の取引で得た情報が役に立たない。非常に取引費用が高くなった状態です。そのような経済をどう立て直すかは、ひとつのチャレンジかなと思いました。
――現場に入って、可能性を感じたものはありましたか?
永松 小千谷市に、被災した飲食店の組合が中心となって、弁当をつくって被災者に提供する取り組みがありました。私が後に「弁当プロジェクト」と呼んだものです。
大規模災害の対応においては、ある程度まとまった物量が必要です。それを速やかに提供できる能力がある業者は、大企業で全国的にビジネスを行っているような企業にかぎられてしまいます。被災者向けの食事など、小千谷市単独でも数千の単位で必要なのですが、地元の業者が単独で作れる量はせいぜい数百個単位。かといって地域外に外注するのはもったいない。なぜなら、弁当をつくることのできる業者が地域内にいて、それらの仕事になるわけですから。小千谷の「弁当プロジェクト」は、被災事業者が互いに連携して、8000個の弁当を提供することに成功しました。
これはいい仕組みだと思いました。地元に仕事を与えて、なおかつ災害対応の質も低下させていない。地元で物資調達をという私の提言は、うまくやれば受け入れられる余地があると確信しました。
2007年の中越沖地震は、小千谷市の隣の柏崎市が主に被災し、これと同様のプロジェクトが立ち上がりました。発生後すぐに、小千谷市の人たちと支援に向かいましたが、柏崎市にも同様の組合が存在していたので、非常にスムースでした。
■「キャッシュ・フォー・ワーク」との出会い
――その頃キャッシュ・フォー・ワークはご存じだったのでしょうか?
永松 小千谷市と柏崎市の取り組みから、現場で生じる仕事を地元の人がやることで、雇用維持と災害復興に繋げられることを確信しました。ちょうどそういった活動をしているときに、途上国ではキャッシュ・フォー・ワークという取り組みがあることを知りました。
ただし途上国でのキャッシュ・フォー・ワークは土木業が中心です。日本の産業構造や、あるいはとくに都市では事務系の仕事が多いので、ミスマッチが起きてしまいます。一過性の建設事業に送り込んでも持続はできません。途上国のスタイルは日本では難しい。
2005年に発生したハリケーンカトリーナ災害の現地調査に行きました。そこでは連邦危機管理庁(FEMA)が被災者の雇用プログラムを受け持っていたのですが、FEMAはコールセンターを設置し、被災者からいろいろな相談業務を受け付けていました。ぼくにとってこれは目から鱗だったんです。
災害復興の仕事となると、肉体労働のイメージがありますが、先進国ではこれは難しい。しかし先進国では、ハードの復旧だけではなく、個々の被災者に寄りそう支援が求められる。さまざまな支援の制度も充実しています。これらを円滑に動かすための大量の事務が発生するんです。
途上国型のキャッシュ・フォー・ワークは難しいかもしれない。しかし事務的な仕事を被災者に開放すれば、弁当販売以外にも、もっともっと多くの雇用がうまれるはずだと確信しました。
■「みたすキャッシュ・フォー・ワーク」へ
――東日本大震災のさいには、どのように活かされたのでしょうか?
永松 東日本大震災発生の翌々日に釜石市に行きました。何をすべきか考えるためにはまず現場に入る必要があります。現場に入らなければ、現地のニーズがわかりません。
被災地は壊滅的にやられていました。地元の業者を使うだけでは生産力が足りない。弁当プロジェクトだけではどうにもならない。被災者は自分の生業を離れて、何らかのかたちで食いつながないといけない。だからキャッシュ・フォー・ワークしかないだろうと思いました。でもやはり土木事業だけではまかないきれません。ですから、FEMAのように事務的な仕事を作り出す必要があると考え、避難所の運営や炊き出し、瓦礫の片づけや、思い出の品を回収して洗って持ち主に返すといった仕事をリストアップして提案しました。
――仕事がないこと自体がストレスになることもありますね。
永松 仕事がないことは居場所がないことでもあります。自分の役割がなくなってしまって、尊厳が失われる。いつまでも他人の施しに依存して生活しなければならない。生活再建の経済的な面以外にもつらいんですね。
キャッシュ・フォー・ワークには失業対策と弱者就労というふたつの面があります。ぼくはそれを、「つなぐキャッシュ・フォー・ワーク」と「みたすキャッシュ・フォー・ワーク」と呼んでいます。途上国のキャッシュ・フォー・ワークはつなぎのプロジェクトと自己規定します。経済成長の潜在力が高い途上国では、本格的な経済復興までのつなぎとして、キャッシュ・フォー・ワークが取り組まれているわけです。
しかし、今回の東日本大震災はつなぐキャッシュ・フォー・ワークだけでは成り立ちません。震災から1年以上経った今でも、津波の被害の大きい沿岸部や、福島第一原発周辺地域については、震災前の経済活動水準に戻る目途はまったくたっていません。こういう場合、つなぐキャッシュ・フォー・ワークだけでは対応できない。
気仙沼復興協会は、被災者自身が立ち上げた緊急雇用の受け皿団体です。気仙沼市からの委託で被災者を雇用して、瓦礫の片づけや掃除、仮設住宅の見守りをやっていますが、掃除関係のような仕事はだんだんなくなってきます。みんな1年も経てば、ぼちぼち元の職場が戻ってくるという前提で動いていたけれど、そこまでいってない。理事長ははやく水産加工が復活してほしいと言っているけれど、あくまで希望でしかありません。
客観的事実にもとづいて考えれば、経済がもとに戻るのはまだまだ先の話です。水産加工団地を再建するにしても、沈下した地盤を嵩上げするだけで数年かかります。再開発には地権者の同意が必要なのはもちろんですが、地権者は死亡して相続権者が全国に散らばっているといったケースもある。地権者の同意を取り付けるだけでも気の遠くなる作業なんです。実際、阪神淡路大震災のときも相当な時間がかかりました。その比にならないくらいでかい規模で再建しなくてはいけない。2、3年では経済は元に戻らないと思います。
だとしたら、今やっている活動を事業化して、緊急雇用ではなくて、自分たちがそれで食っていけるような持続可能な活動にしないといけない。仕事とすることが必要になってくる。起業に近いかもしれません。「つなぐ」という意識でキャッシュ・フォー・ワークを行うのは厳しいんです。だから「みたすキャッシュ・フォー・ワーク」が必要になってくる。
――事業化は可能でしょうか?
永松 たとえば、気仙沼では仮設住宅を建設しすぎて余ってしまっていて、有効活用したいという意見があります。うまく活用すれば、ボランティアを呼べるようになって支援活動にも使えるし、もしかしたら観光客もそういうところに泊まりたいと思うかもしれない。
あとは、気仙沼には人材派遣会社がないそうです。都内でしたら、ホテルの清掃は外注で行いますが、気仙沼ではホテルが直接雇用せざるを得ない。たしかに地元の雇用は守れますが、収益的にはマイナスで、その影響で設備の更新ができず、魅力を落とすホテルも少なくない。復興協会は今まさに、多くの人材を抱えているのだから、そういった人材派遣業に取り組むというのもあり得るかたちだと思います。
現場の人はものすごく真剣に考えて、なんとか仕事をつくりたいと思っています。彼らもこのままじゃいけないと思っているんですね。でも、なかなか持続可能なアイディアが浮かばない。そういう意味での支援も必要になってきます。
■メディアの役割とは?
――メディアには何ができるのでしょうか?
永松 東日本大震災が起きてすぐ、現場に入って考えたことをブログに書いて発信していました。これは本当に大きな意味がありました。「三陸に仕事を!」プロジェクトによる「浜のミサンガ」の製造販売事業があります。後から聞いた話ですが、ぼくのブログを読んだことが、雇用に着目したプロジェクトを立ち上げたきっかけなんだそうです。メディアはとても大切です。ぼくの活動をみなさんに注目していただけたのも、いち早く発信したからこそだと思っています。
現地にいる人たちは、ぼくらが持っているような知識を切実に受け止めてくれます。しかし、現地では知的なリソースがあまりにも少ない。復興協会に勤めるある女性は、この震災が起こるまで大学の先生や弁護士と会話したことがなかったといいます。気仙沼からほとんどでたことがない人も多い。そういった人にとって、一線の研究者と話すことはすごく新鮮な経験だと思います。
現地の人は本当に生きた知識を必要としている。「今、何をすべきなのか」「どういう状況にあるのか」と、いろいろなことで悩んでいる人たちがたくさんいます。しかし、彼らの多くはそういった教育を受けてこなかった。ずっと地元で暮らしてきた人々も多く、どうしても視野が狭くなってしまう。
たとえばTPPの参加について、現地の漁協や農協はこぞって反対するわけです。だから漁業や農業に従事する若者たちも、反対することが当然となっている。しかし、その反対の理由がたんに地域エゴで終わらないようにするためには、自分たちが守っている農業や漁業の社会的意義を理論的に説明する必要がありますよね。たんに我々の雇用を守れでは説得力がない。
他方で、TPPに参加した場合のメリットだってあるわけです。地元の人たちがそういったことまできちんと理解しているのかどうか。若い人ならかえってその方がビジネスチャンスが広がると考える人も出てくるはずです。
最終的にどうするかを決めるのは地元の方々だと思います。ただ、復興に必要なのは、幅広い視野を持って、自分たちが置かれている状況を俯瞰的に眺めること、それが第一歩ではないかと思うのです。
■大学の知識を被災地の復興に役立てたい
今、こぞって大学が学生をボランティアとして現地に送っているじゃないですか。もちろん、必要とされているのだから、そのこと自体を否定するつもりはありません。ぼくもたくさんの学生を被災地に送っています。
でも、それをもって大学の貢献が終わりだとしたら、なんだか寂しい気がします。それって被災地を利用して自分たちの学生の教育をしているだけじゃないですか。本当に知識が必要な人たちは、被災地にもいるんですよ。その人たちに知識を提供しないで、逆に調査と称して知識を被災地からはぎ取っていくだけでいいのだろうかと思います。
――大学の知をもっと有効に活用できると。
永松 学者同士の空中戦の議論も必要でしょう。しかしぼくらの持っている知識は、もっと人々のためになるはずです。荒れ果てた被災地にだって、知恵があれば、いくらでも発展する余地があるかもしれない。これこそぼくら大学人の最大の社会貢献だと思います。
一線の研究者が、ワークショップのかたちで、現地で講義を行う。アカデミックなものかどうかはこの際ともかくとして、現地の人々が聞いてよかったと思える知識を提供する。そして現地の方々と共に悩み、考え、新たな知恵を紡ぎだし、そしてそれを被災地に返す。
ぼくらにとっても、それは真剣勝負です。被災地の人々が抱える問題には、数学の公式のように、当てはめれば答えが出るというものなんてひとつもない。ひょっとしたら、ぼくらの知識なんて糞の役にも立たないかもしれない。そういった謙虚さは常に必要です。でも、それで終わっていたら、我々は何のために学問をやっているんだ、ってことになりませんか。
私たち一人ひとりの知恵では足りなくても、シノドスのようなメディアの力を借りることで、ネットワークが格段に広がる。そこから何か新しい動きが生まれるかもしれない。我々の知識が、啓発され、そこから付き合いが広がって、より大きな支援のかたちになるかもしれない。
日本災害復興学会という学会があります。阪神・淡路大震災や中越地震、その他国内のさまざまな災害からの復興に関わった、実務家や研究者らのネットワークから発展していった学会です。私も会員の一人ですが、「復興アリーナ」では、この学会も全面的に協力してもらえることになりました。
これまでのシノドスのネットワークに日本災害復興学会が加わることで、災害復興に関して間違いなく、我が国最大の知的ネットワークが「復興アリーナ」に形成されるのではないかと思います。被災地の方々がよりよい復興を実現できるための、知的な貢献というか、被災地の方々のエンパワーメントに何かしら貢献できればと思います。
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