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 2011年3月、東京電力福島第一原子力発電所で甚大な被害をもたらす事故が起きてしまった。あれから2年あまり。

 東電はもちろん悪い。だが、国策として原発を進めてきた経済産業省の官僚らは、いま、どう考えているのだろう。

 筆者は今回、そんな問題意識をもち、朝刊連載の「プロメテウスの罠(わな)・原発維持せよ」(掲載は4月13日~5月3日)の取材で、複数の経産官僚幹部に話を聞いた。

 だが、残念ながら真摯(しんし)な反省の言葉を彼らから聞くことはできなかった。

 「原子力村の村長」と言われた望月晴文・元事務次官は今年2月、都内での講演で、国内の原発の稼働状況にからんでこう語った。

 「日本はかなり古いやつもありますけど、20基や30基はピカピカですからね。それを使わない」

 「いま全世界で原発が400基ぐらいあるんですけど、あと400基ぐらい建てる計画が進んでいる。かなりの発注が日本の重電メーカーにきている。なぜかというと、日本がいま世界で一番安全な原子力をつくれているからです」

 会場の片隅で聞いていた筆者は驚いた。

 望月氏は商用原子炉の安全規制を担う原子力安全・保安院が01年にできたときの同院次長である。

 その保安院がしっかりと地震や津波に対する備えを東電に求めていれば、事故は防げたかもしれない。だからこそ、保安院は事故後に事実上、解体されたのではないのか。

 なのに、能天気に、日本の原発は安全です、はないだろう。悪い冗談は止めてもらいたい。

 この連載取材のため、近年の電力行政の歴史もたどった。そこでもはっとした。

 07年、電力12社のトラブル隠しやデータ改ざんが相次いで発覚し、大問題になった。経産省は同年4月20日、うち50の事案を「悪質な法令違反」と認定した。しかし、電力各社の経営者の責任を厳しく問うことはなかった。

 「平成の徳政令」。省内で皮肉を込めて呼ばれた事件だった。当時の経産相は甘利明氏、資源エネルギー庁長官は望月氏だった。

 その「徳政令」事件から、わずか10日後の4月30日。両氏はカザフスタンの首都で、同国国営企業と、東電や東芝、丸紅など日本側企業との間のウラン資源をめぐる盛大な調印式に出席していた。

 双方の調印を後ろで甘利、望月両氏が見守り、拍手を送る写真が朝日の社内に残っていた。経産省と電力・産業界の密接ぶりを鮮明に映し出していた。

 繰り返しになるが、これは「徳政令」事件から、たった10日後のことだ。政官業で形づくる原子力村は、もはや最低限の「モラル」もなくしてしまっていたのではないか。

 エネ庁長官の望月氏は翌08年、経産相の甘利氏により、事務方トップの事務次官に引き上げられた。エネ庁長官からの異例の起用だった。10年に退職すると、内閣官房参与となって原発輸出の旗を振った。

 そして東電の原発事故の後の12年に、世界有数の原子炉メーカーである日立製作所の社外取締役になった。

 このとき、筆者はこの望月氏の日立への再就職を「天下り」だと記事で批判した。今回の取材でインタビューの申し込むと、望月氏はこの記事にたいそうご立腹なようすで、「天下り」の質問項目を外さないとインタビューには応じないという。

 でも、ここまで日本の原子力産業の「発展」に尽くした望月氏の日立への再就職が「天下り」でなければ、何が「天下り」になるのだろう。筆者はこの問題に「触れないわけにはいかない」と席を立った。

 一般常識が通じない経産官僚は、望月氏だけではない。

 東電の原発事故当時の経産事務次官だった松永和夫氏は ・・・ログインして読む
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筆者

小森敦司

小森敦司(こもり・あつし) 朝日新聞経済部記者(エネルギー・環境担当)

東京都出身。1987年入社。千葉、静岡両支局を経て、名古屋や東京の経済部に勤務、金融や経済産業省を担当。ロンドン特派員も経験し、社内シンクタンク「アジアネットワーク」では地域のエネルギー協力策を研究。現在、エネルギー・環境分野を担当、とくに原発関連の執筆に力を入れている。著書に「資源争奪戦を超えて」「日本はなぜ脱原発できないのか」、共著に「失われた〈20年〉」、「エコ・ウオーズ~低炭素社会への挑戦」。

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