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[12]ジャーナリスト・安田浩一との対話(中)

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 ――ところでなぜ、在特会に関心をもつようになったのですか。

在特会の抗議行動在特会のデモで騒然とする街角=2013年6月30日、東京・新宿区

 安田 僕は日系ブラジル人や中国人研修生など外国人の雇用問題について取材をしていて、日本における外国人の在り方に関心を持つようになりました。すると彼らの集住地域では一般の日本市民に在特会的な視点が芽生えていることがわかった。彼ら外国人の数が少ないとお客さん扱いなんですが、数が増えてきて彼らが権利を主張し始めると、とたんに厄介者に格下げされてしまう。2000年以降、「外国人、出て行け」と叫ぶ人たちのことを調べていくと、いやがおうにも目に入ってきたのが在特会だったんです。

 ――最近あまりいない非常に左翼的な問題意識ですよね。『ネットと愛国』のエピローグでは、三里塚で援農(空港反対派農民を支援する運動)しながら街頭でビラ配りをしたとあります。バブル世代の私と同世代(私のほうが一歳年下)で、左翼が衰退していくなかで、どうして左翼性を持ち得たのですか? もともとジャーナリスト志向だったのですか?

 安田 父親が毎日新聞の記者だったんです。それで、一番なりたくないのが新聞記者だった(笑)。とにかく家にいない。しかも、そういう家にいないことを格好いいだろうとする雰囲気が嫌で嫌で(笑)。

 父が地方回りの長い記者だったので、転勤が多くて、それで僕は転校ばっかり。それで不登校になってしまったんです。僕は生意気で自我が強いので、転校先の雰囲気に同化しようとすることを「よし」とできなかった。いじめられるのがいやで学校にいかなくなっちゃった。

 そうするうちに高校生のころから社会運動に興味を持ってしまった。あっちこっちの党派に首だけ突っ込んで、当たり前のように三里塚へ向かった。あそこが革命の聖地と思っていたので。1984~85年ごろのことです。

 ――かなり珍しいですねえ。

 安田 どこにも居場所がなかった。だから何かが欲しくて。いまだったらネトウヨ(ネット右翼)になっていたかもしれない(苦笑)。

 高校の時分には左翼的なものに非常にあこがれていました。中核派を含めて党派に手紙を書いたり、10代後半の時からルポルタージュが好きで本多勝一さんや松下竜一さん、鎌田慧さんを読んだりしていました。

 そうそう、それ以前にエドガー・スノウ(中国革命を書いた『中国の赤い星』の著者)とかジョン・リード(ロシア革命を書いた『世界を揺るがした十日間』の著者)を読んだり、日大や東大の全共闘など学生運動の記録とか「革命文献」を読みあさっていましたね。若者は正しい運動をやらなくちゃいけないと思っていました。

 ――「革命オタク」だったんだ!

 安田 バブルに突入する時代だったんですが、非常に頭でっかちになっていました。友達とロックバンドをやっていましたが、バンド活動も反体制運動の一環という位置づけでした。なんだか青臭くて、イヤだなあ(笑)。

 ――じゃあパンク?

 安田 セックス・ピストルズやクラッシュなどを聴いていました。でもパンクをやるほどの勇気はなく、普通のメジャーなロックから入りましたが。それでもロックをやる以上、政治的でないといけないと思っていました。

 80年代は「スカの時代」だったから余計に政治的なものにあこがれまして。10代、20代のときは徹底的に左翼でありたいと思っていましたし、

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