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[1]自由な選択は可能だ

齋藤進 三極経済研究所代表取締役

 東西冷戦終結前の米国では、『比較経済体制(制度)』の議論が活発であった。資本主義市場経済と社会主義計画経済のいずれが優れた社会経済制度であるかという論争である。

 土地、生産設備などの資産が国有化されていた社会主義計画経済と言っても、旧ソ連のように、企業経営・資源配分を中央が厳しく統制する体制もあれば、チトー大統領下の旧ユーゴスラビア連邦のように、労働者が企業経営に直接に参画する体制もあるなど、その形態は必ずしも一様ではなかった。

 1989年(平成元年)のベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結で、比較経済体制の議論は、一気に下火になってしまった。資本主義市場経済が、社会主義計画経済に勝利して、決着したと見られたからだ。

 しかし、資本主義市場経済も、その制度の内容は、国ごとに大きく異なっている。産業革命後の2世紀余りの間に、農業中心社会が先進産業社会に変貌する過程で、それぞれに大きく変わって来たのが、歴史的な事実である。

 公的年金制度、公的医療保険制度なども、かつては、政府の経済生活への干渉に反対する自由放任の資本主義市場経済を標榜する立場からは、『社会主義的』として反対されていたものであった。

 米国の最近の財政問題をめぐる与党・民主党と野党・共和党間の大騒ぎも、公的医療保険の対象を拡大し、国民皆保険化を目指したオバマケア(既に法律化している)の実施を、今年10月からの米国の新会計年度開始の土壇場で阻止しようと、野党・共和党が、連邦政府予算・債務上限を人質に取ってのものであった。

 社会保障制度の関しても、その推進・拡充派と、正反対の自由放任・自己責任派とのせめぎ合いが続いているのが、『先進国』とされる米国の実状である。

 社会保険、社会保障制度の歴史は、皮肉に満ちている。

 ドイツで、社会保険の仕組みを最初に導入したのは、反社会主義者と見られていた鉄血宰相ビスマルクであり、日本で現在の厚生年金制度の前身の労働者年金保険法を、1941年(昭和16年)3月の戦時中に成立させたのは国家総動員体制を導入した近衛内閣であり、その施行令を同年12月に発したのは東條内閣であった。

 国民生活の最低の基盤は、衣食住の確保である。さらに、医療・介護、教育(託児)などのサービスであろう。これらの国民生活の基盤を、国家(=国民共同体)がどの程度、その構成員である国民に保障し、負担するかが問題となる。

 以下のグラフをご覧いただきたい。日本、米国、ユーロ圏(1995年以降)の1980年以降の30年間余りの1人当たりの国内総生産(GDP)の推移を示している。

 この3地域を形容すれば、日本が中福祉・低負担国、米国が低福祉・低負担国、ユーロ圏が高福祉・高負担の国が多い地域と言えよう。

 我々日本国民にとって肝要なのは、日本の1人当たりGDPの水準は、最近の四半世紀余りの期間では、米国・ユーロ圏に比べて、余り遜色のない水準に追い付いていることである。

 要するに、西欧・北欧型の高福祉社会も、米国型の低福祉社会も、日本国民・社会は自由に選択する事が可能な状況に長らくおり、現在もいると言うことである。

 安倍首相以下のアベノミクスの宣伝文句ばかり聞いていると、経済成長がなかったので、また将来の経済成長がなければ、日本社会はニッチもサッチも行かない、北欧型の国民がノンビリと暮らせる社会は望むべくもないとの『錯覚』を受ける国民が大多数であろう。

 しかし、それは、日本政府自身が推計して来た統計的な事実に基づけば、文字通りに誤りの錯覚に過ぎないと言えよう。

 自由で民主的な社会では、全市民、全国民が、出来るだけ客観的に、経済社会の統計的な事実を知らされ、それによって、可能な選択の幅を知らされることが、全ての議論の第1歩であろう。

 それから、社会保障、税制などの経済社会経済制度は如何にあるべきかの議論が、初めて始められる。どんな制度が好ましいかは、個々の市民、国民で異なるのは、自由民主社会では当然のことであろう。