メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[8]和せば栄え、争えば枯れる東アジアの国際関係

齋藤進 三極経済研究所代表取締役

 戦前の昭和初期には、「満蒙は日本の生命線」と言うのが、当たり前のように語られていた。日清・日露の両戦争の勝利で獲得された朝鮮、台湾、満州などの領土、経済利権は、『大日本帝国』の死活を左右すると大多数の論者、政治家などに考えられていたからだ。

 そのような圧倒的な社会風潮に抗して、「殖民地放棄論」を敢然と唱えたのは、日本の敗戦後十余年を経て総理大臣となったジャーナリスト・経済評論家の石橋湛山であった。

 冷徹な石橋の眼には、殖民地を維持するための軍事費、行政費などの財政的な負担は、殖民地から得られる経済的な利益を大きく上回る。良好な国際関係を醸成し、その上に、米国、欧州、中国・アジアなど、世界各国との国際貿易を円滑に拡大する事こそ、日本全体にとって、真の「国益」であることが見えていたと言えよう。

 ちなみに、石橋湛山は、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の玉音放送からわずか10日後の8月25日、多くの日本国民が戦争の終結にほっとしながらも、日本の将来に展望を持ちえなかった時期に、自分が主催する経済雑誌『東洋経済新報』に、「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」と、先見性のある論説を掲げた事でも知られる。

 歴史的な事実として、敗戦後のわずか四半世紀で、軍備を抑え、経済再建・経済発展に注力した日本は、自由主義陣営では米国に次ぐ世界第2の経済大国に躍り出た。米国が主導した戦後の国際金融・貿易秩序の下で、国際貿易を進展できた事も、日本経済が躍進した基礎であった。

 1950年代、60年代の戦後日本の高度経済成長の経験に倣ったのが、1970年代末以降の中国の『改革開放』政策であった。改革開放政策前の毛沢東指導下の中国の経済政策の基本は、『自力更生政策』、要するに、自給自足で経済発展を図るというものであった。

 自力更生政策の下で、農村部に人民公社、生産大隊を組織し、農業部門の余剰を吸い上げて、産業部門の発展の原資にしようと図ったが限界があった。人口過剰で、生産性の低い農業部門から産業部門に吸い上げられる資本の規模は余りにも小さく、その増加ペースも緩慢であったからである。

 中国が産業資本の不足から経済発展にもたついているうちに、中国が勝利したはずの「敗戦国日本」が世界経済の最先端に躍り出ただけではない。韓国、台湾、香港などの中国周辺、シンガポール、タイ・マレーシアなどの東南アジアまでもが、経済発展状況では、中国を大きく凌駕しつつあったのが、35年余り前の東アジア・東南アジアの実状であった。

 そこで採用されたのが、改革開放政策の名目の下での『外資導入政策』であった。要するに、台湾、韓国の先例にならったのだ。

 それから30年余り。結果は、かつての日本と同様に、中国は、世界第2の経済大国に躍進した訳である。

 その中国の今後にとって重要なポイントは何だろうか。

 第1に、円滑な外資導入を続けるには、日本、欧州、米国などの資本・技術を提供する諸国との外交関係を平穏に保つことが不可欠である。

 毛沢東の自力更生政策に見切りを付けて、改革開放政策に舵を切った故トウ小平は、後輩の指導者に対する遺言として、平和的・協調的な国際関係を維持することの

・・・ログインして読む
(残り:約863文字/本文:約2203文字)