2014年02月12日
「世界一企業が活躍しやすい国」は、安倍首相が就任演説で打ち出したスローガンだ。以後、「企業の活躍しやすさ」を目指した雇用規制緩和策が、相次いで打ち出されている。だが、これらの構想からは働き手の姿が見えてこない。企業業績にせよ、消費にせよ、その一線を支える働く人々が疲弊していては、活性化はありえない。「企業が活躍しやすい」仕組みは、こうした人たちが元気になれる仕組みにつながっているだろうか。このシリーズでは、そんな働く人々の現実から、「企業が活躍しやすい国」のリアルを検証していきたい。
2月5日に春闘が本格スタートし、マスメディアでは「アベノミクスで賃金は上がるのか」という問いが繰り返され続けている。アベノミクスは、「空前絶後の量的緩和」で円安や株高を促し、これをカンフル剤に企業を活性化させ、その成果を働き手に回して消費を回復させつつ、「成長戦略」を軌道に乗せて日本社会を立て直す、というシナリオだ。
したがって、これを実現するには、賃上げによる働き手への還元と消費の回復が不可欠だ。しかも、円安政策によって、輸入燃料や食材などの生活用品はすでに値上がりし賃金の目減りが始まっている。4月からは、消費税の引き上げが家計にのしかかる。だから、これらを上回るほどの賃上げがないと働き手の取り分はむしろマイナスになり、景気は腰折れしかねない。だからこそ、賃上げが焦点となる。
2013年春闘も、同様の問題意識から賃上げが話題になり、安倍首相が賃上げを企業に要請する「布教作戦」が始まった。業績が最高益だったコンビニ業界がこれに呼応する形で賃上げを打ち出し、期待は高まった。だが、その動きは、持続的な賃上げにつながる賃金体系の底上げ(ベースアップ=ベア)ではなく、ボーナスなど一時金中心に終わった。そこで、昨年を上回る企業業績が相次ぐ今年はベアがテーマとならざるをえない、というのがこれまでの状況だ。
こうした空気の中で、今年1月の民間調査機関「労務行政研究所」の上場企業アンケートで、経営側は昨年の調査より約10ポイント高い16・1%が「ベアを実施」と回答している。だが、仮にベアがなされたとしても、働き手全体の取り分が上がるかどうかは予断を許さない。好業績の大手企業のベアが全体に波及した高度成長期とは、決定的に異なる二つの条件があるからだ。
ひとつは、非正規労働者の急増だ。20年前、2割台だった非正規労働者は、1990年代後半から2000年代初めにかけての相次ぐ雇用の規制緩和で増え続け、2012年の総務省就業構造基本調査では働き手の38%、4割近くにまで達した。
問題は、その賃金水準の極端な低さと、短期契約による不安定さだ。
たとえば、2011年の厚労省の調査では、契約社員などの有期労働者の74%が年収200万円以下だ。しかも、正社員と同じ職務でも60%が、正社員より高度の職務でも44%が年収200万円以下で、仕事内容と賃金が連動しない賃金差別といっていい状況が続いている。
マルハニチロホールディングスの子会社アクリフーズで起きた製品への農薬混入事件では、容疑者の男性は、8年3カ月、契約社員としてその工場で働いてきた。新聞各紙や雑誌「AERA」(2014年2月10日号)などによると、時給は1000円から2000円程度で、フルタイムで働いたとしても年収は200万円台といったところだ。
扶養家族への手当や100万円を上限とした退職金などはあったが、2012年の給与改定で、手当も退職金も廃止され、勤続年数によって引き上げられていた賞与も評価に連動するようになった。この改訂で、男性は、アベノミクスによる賃上げが話題だった昨年、むしろ査定で賞与を減らされていたという。
家族3人を抱え、「こんな給料じゃやっていけない」と直属の上司に訴えていたとの元同僚の証言も報じられている。こうした賃金体系の働き手が4割に近づく社会で、ベアがどれだけ働き手全体の取り分の増加につながるだろうか。
五石敬路・大阪市立大学准教授は、著書『現代の貧困 ワーキングプア~雇用と福祉の連携策』(2011年、日本経済新聞出版社)の中で、働き手全体の現金給与総額に、パート増加率・パートの現金給与総額・一般労働者の現金給与総額の変動がもたらす影響をはじき出している。
これによると、全体の現金給与総額は、一般労働者の現金給与総額が上がれば上がる。これが高度成長期のパターンだ。一方、パート比率やパートの現金給与総額が上がると、全体の現金支給総額は下がる。つまり、多少のベアがあったとしても、低賃金の非正社員の比率を大きく増やせば働き手全体の取り分は増えず、その比率の増やし方によっては減らすことさえできることになる。
円安と従来型の公共事業の大盤振る舞いに依存した景気回復がはやされる中で、持続的な回復へ向けた成長戦略や産業構造の転換には、ほとんど手がつけられていない。だから、企業も業績の先行きに確信を持てずにいる。となれば、削減が簡単な非正社員採用を増やす。
総務省の労働力調査では、20133年7~9月平均の国内のパートの雇用は12年平均比で4・5%増。この5年では12.6%伸び、国内の総雇用の伸びである0.6%を大きく上回り、非正規はますます増えそうだ。
パートの需要が増え、時給は上がっているともいわれるが、それでも1000円前後だ。正社員が、これらの働き手に代替されていく中で、正社員ベアは焼け石に水となりかねない。ベアでさえも働き手にカネを回す力を十分に果たせないのが、いまの社会なのだ。
高度成長期とのもうひとつの違いは、働き手間の格差を是正する装置ともいえる春闘の弱体化だ。春闘の格差縮小機能が極めて弱いのだ。
高度成長期、春闘は、大手と中小企業の賃金格差を縮める役割を担っていた。大手の賃上げ交渉結果はいち早く中小の労組に流され、中小労組は、これを目安に掲げて企業に有利に交渉を進めた。日本の労組は企業に奉仕する企業内労組の限界を抱えていると言われ続けてきた。その限界を克服しようとした企業横断的な賃金交渉装置が、この時期の春闘だった。
連合総研の月間レポート「DIO」(2014年2月号)の龍井葉二・連合総研副所長による巻頭言では、組合員から「なぜ大手の交渉結果を地場労組に流す必要があるのか」という率直な疑問が寄せられるなど、春闘の意味が十分共有されていない現状を指摘している。
龍井氏は、いま問われている賃金の底上げには、利益の出ている大手企業から労働側が原資をしっかり引き出したうえで、これを、大手から中小、正規から非正規へと分配する役割を春闘が取り戻すことが不可欠と主張し、「例えば、大手組合の獲得した一時金の原資を、非正規労働者の資金や取引先企業の単価や賃金に配分する、というのも、ひとつの方策かも知れない」と提案している。
1980年代に国鉄民営化の過程での国労つぶしなど、大手労組の解体が進み、1990年代後半からの雇用の規制緩和で、短期雇用で組織化が難しい非正規労働者が増やされ続けた。その挙句、高度成長期でも3割台をキープしていた労組の組織率は、いまや2割を切った。
連合も今年の春闘で、パートの時給30円の賃上げを求めている。その実現には、正規労働者の教育と、非正規の組織化の両方が不可欠だが、仮に30円アップが実現されたとしても、非正規を大きく増やして正規をさらに絞り込めば吸収されてしまいかねない額だ。
こうして、大手の賃上げが幅広く波及する仕組み自体が、この間、壊され続けてきたわけだが、アベノミクスの雇用政策は、これらの機能を立て直すより、むしろ壊す方向に向いているようにみえる。
2013年春、有期労働者の乱用に歯止めをかけるため改正労働契約法が施行され、5年を超えた有期雇用の労働者は無期雇用化を申し出ることができることになった。だが、早くもその数カ月後、政府の産業競争力会議は、国家戦略特区構想の雇用特区内では一定の条件下でこれを免除する案を打ち出したが、世論の反発で、引っ込められた。
今年1月には、厚労省の審議会が労働者派遣法改定についての最終報告を発表し、従来の派遣労働者の期間制限を撤廃して別の派遣労働者に取り変えれば、原則どんな仕事も派遣で充当できる「生涯派遣」への道を開いた。非正規雇用への歯止めを、むしろ撤廃する動きだ。賃上げを要請しながら非正規の枠は広げて賃上げの負担を軽くさせるという奇妙な政策が、猛スピードで進行している。
これらを見る限り、アベノミクスが発しているのは、「目に見える賃上げ」を実施すれば、その結果増えた人件費負担を帳消しにする非正規の受け皿を増やし、「見えない賃下げ」で吸収してあげますよ、というメッセージであるかのように思えて来る。実質的な働き手の取り分の増加ではなく、賃上げムードを盛り上げるためのバーチャルな「賃上げ劇場」の演出である。これこそが、アベノミクス賃上げの死角に置かれた真の狙いではないのか。
こうした、働き手のリアルを欠いた「世界一企業が活躍しやすい国」は、どこへ向かおうとするのか。この視点から、次回は、「生涯派遣」へ向けた派遣労働法改定が働き手にもたらす意味を検証していきたい。
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