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第3の8・15から東アジアの緊張緩和を考える(上)

小原篤次 大学教員(国際経済、経済政策、金融)

 日本にとって8月15日はこの上なく重い歴史的な日だ。もちろん、すぐ頭に浮かぶのは1945年だ。ソ連対日参戦と長崎原爆投下の6日後だった8月15日、ラジオから玉音放送が流れた。二つ目は1971年。金とドルの交換を停止したニクソンショックが起きた。主要国の為替制度は固定相場制から変動相場制に移行し、グローバル経済の幕が上がった。

フランシスコ・ザビエルが上陸した8月15日

 だが、本稿ではこれらとは別の第3の8月15日に着目したい。1549年、スペイン出身の宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸した日である。日本におけるキリスト教の伝来、布教の始まりである。

 当時の欧州はプロテスタントが拡大し、カトリックは信者拡大を海外に求めた。ザビエルが所属するイエズス会(上智大学やジョージダウン大学などを設立)は海外へ積極的に伝道活動に乗り出していたのだ。

 航路は半世紀前、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが開発した喜望峰(現在の南アフリカ)経由だった。2年3カ月あまりの滞在で、3000人を超す日本人に洗礼を授けた。

 その後、キリシタンは1587年には20万人、1597年には30万人、1630年代には延べ76万人にのぼった。17世紀初頭の日本の人口は太閤検地によると、約1800万人と 推定される。ここから推計すると、人口に占めるキリシタンの割合は4%程度と高い。キリシタンの増加にはキリシタン大名の存在が大きい。大名には宣教師らを通じて武器や貿易利権の獲得期待があった。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主役、黒田孝高(よしたか)もキリシタン大名の一人だ。

厳しさを極めたキリシタンへの迫害

 豊臣秀吉の伴天連追放令(1587年)後も、キリシタン大名である有馬晴信の島原、小西行長の天草などでは信仰が続いた。しかし、徳川家康、秀忠、そして家光と、キリシタンへの迫害は厳しさを増していく。

 殉教者の数は、徳川時代の旗本、新井白石は20万人以上と推定していた。そのほか、史料を基にした研究による殉教者数は1450人、3792人、4045人と増加し、近年では、約4万人との研究もある。

 ザビエルから1643年までに来日した宣教師は450人でうちイエズス会が316人にのぼる(五野井隆史(2002)『日本キリシタン史の研究』)。黒船来航の後、各国と結んだ修好通商条約で外国人に対する信仰と礼拝が確認され、フランスからカトリック宣教師が1859年に来 日し、長崎の大浦天主堂などが建設される。

 日本人に対するキリスト教禁制が解かれたのは1873(明治6)年だった。この間、「浦上四番崩れ」という最後の大規模なキリシタン弾圧が長崎で起き、欧米諸国の領事らは人権侵害と訴えたのに対して、日本側は内政干渉と反発した。しかし明治初期の岩倉使節団が欧米で、

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