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香港・雨傘革命後の中国、GDP世界1へ加速

2015年は中国経済の存在の高まりを痛感する年に

小原篤次 大学教員(国際経済、経済政策、金融)

  「大阪、大好き」――。香港駐在時、アニメ好きが講じて日本通いを続ける娘さんと知り合った。その彼女が今年の夏の終わりに、家族全員を引き連れて、関西経由で長崎にやってきた。スマートフォンとパソコンを持参し、訪問先でFacebookの投稿を続ける。メールや電話のやり取り無しに、彼女たちの動静をつかめた。

強制排除前に、最後の抗議をするデモ隊=2014年12月15日、香港・銅鑼湾

 にきび顔の男の子は長崎市内の地図を差し、「長崎には香港上海銀行があったんだ」と長崎で「香港」を見つけ、満足そうだった。中国大陸出身の母親は「長崎の夜景は香港よりもきれい」と褒めてくれた。社交辞令でもうれしい。斜面に建つ民家が照明となる長崎と、高層ビルの夜景が中核となる香港とは確かに違う。

 仕事一筋・無口な父親はトンカツ屋のご飯のお変わりや ホテルバイキングがお気に入りだった。香港の九龍半島に住むこの家族4名を長崎に向かい入れていた直後、中国、ベトナム、ミャンマーへシフトした日本のメディアが香港に緊急集結する雨傘革命が起きた。その後、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を通じて、子供たちがデモに参加したことを知った。政治的な話は一切しなかったが、驚きはなかった。

 見ず知らずの外国人観光客がいきなり写真撮影しても、怒り出す日本人は少ないだろう。しかし香港では写真撮影に注意しなければならない。共産党による中国建国、文化大革命など、合法、非合法、政治的、経済的様々な理由で中国を離れてきた人がいるためである。中国から逃れてきた庶民にとって、中国への思いは、愛憎が混じるあう複雑なものであると理解していためだ。

香港のチャイナリスクを避けたい金融機関

 香港が世界的に注目された1997年7月1日の中国返還から14年が経過した。翌日はタイ中央銀行が投機筋のバーツ売りに敗れ、アジア通貨危機が始まっている。中国の香港返還前は好景気で、人も投資も集まった。香港の不動産を買いあさる日本人も少なくなかった。ただし香港の資産家は中国を嫌い、家族単位のほか、家族構成員ごとに、カナダや豪州などで海外籍を取得して、チャイナリスクに備えていた。雨傘革命前から、金融機関や投資家には、アジアの拠点は香港ではなくシンガポールとの考え方が根強い。チャイナリスクに備え続けている。

 英国がアヘン戦争勝利で獲得した香港で、長く高度な民主主義が実施されていたわけではない。英国の投資政策は香港政庁を中心に、植民地行政が行われてきた。外国人にとっては中国への玄関口、貿易港、タックスヘブンなどのアジアのビジネス拠点として位置づけられていた。英国は行政力によって政治的安定が確保していたと言えよう。民主主義が進んだのは香港統治の末期に過ぎなかった。

 21世紀になり、アジア通貨危機による成長鈍化を持ちこたえた中国は高度な成長期に入り、香港の金融・行政の中心地、中環(Central)は欧米投資家の金融センターから中国企業の金融センターに変貌していった。他方、建築後30年を超えた小規模な雑居ビルやアパートが林立する九龍半島サイドには、広東省を中心に買い物客であふれていた。リーマンショックで急落した不動産価格や賃貸料も現在では、軽く東京の都心を超えている。英国領香港も中国特別行政区の香港も個人が土地を保有できない点では変わらない構造がある。

香港の中国返還50年と中国の建国100年の符合

 一国二制度は50年の約束である。それほど遠くない未来に制度を全面的に見直す機会が訪れる。香港を中国に合わせるか、中国を香港に合わせるのか。香港在勤中、常に思考実験を繰り返していた。

 香港を中国に合わせるのは香港住民や国際世論は受け入れられない。それでは中国共産党の目標である台湾統一にも影響が出てしまう。経済に限っても香港の制度を中国で広げられるかというと、格差の大きい中国全土では相当、難しい。採用できるのは、

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