「わかりやすさ」と「売れること」、第3次新書ブームが転機に
2015年05月07日
今年の1月17日、大学入試センター試験の監督をしていた私は、国語の時間に何気なく問題文に目をやり、「あっ」と声を上げそうになってしまった。
第1問は現代文の長文読解だったのだが、それがこんな文章から始まっていたのだ。
「ネット上で教えを垂れる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。」
「誰が書いたものだろう」とあわててページを括り、これが佐々木敦氏の『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』からの一部であることを知った。
私も昨年からネット、とくにツイッターで質問してくる人、というよりはネットスラングで言うところの「絡んでくる人」とかなり頻繁にやり取りしていたので、「啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていく」という箇所に背筋が凍りつきそうになりながら、あわててその先の箇所に目をやった。
「たとえば掲示板やブログに『○○について教えてください』などという書き込みをしている『教えて君』みたいな人がよくいますが、そこには必ず『教えてあげる君』が現れる。自分で調べてもすぐわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。そして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へ知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。」
佐々木氏は、こういった「啓蒙のベクトルが落ちていく」「川が下流に流れ落ちるようによりものを知らない人へと向かってしまう」といった「知性の頽落現象」の罪は「教えて君」より、むしろわかりきったことまでを答えようとする「教えてあげる君」の側にある、と述べる。そして、佐々木氏自身はこういった「教えてあげる」は他の人に任せておいて、自分は「未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい」と決意を述べて問題文は終わるのだ。
監督業務の間を縫ってこの文章を最後まで読み切ったときには、私は掌にじっとり汗をかくくらいのショックを受けていた。私は、ツイッターのわずか140文字を使い、匿名のユーザーと「精神科医ってやっぱり薬ヅケにするんでしょ?ウチの親戚もひどい目にあったって言ってた」「そんなことないですよ。うつ病などきちんと薬を飲んだほうが早く良くなる疾患もたくさんあります」「だって医者は薬出すことで金儲けしてんでしょ」「たとえ大量に処方したとしても処方箋料は同じですよ。いまは実際に薬を出すのはほとんどが院外薬局だし医者が儲かるなんてことはありません」といったやり取りを毎日のように行う。
いや、まだ「精神医療と処方」に関するやり取りならまだ若干、啓蒙の意味合いもあるかもしれないが、さらに無意味な
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