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日経が英フィナンシャル・タイムズ買収で得たもの

大きく広がる知的空間、世界のFT購読者という宝物

小林恭子 在英ジャーナリスト

 日本経済新聞社と英教育出版大手ピアソンは7月23日、ピアソン傘下にあるフィナンシャル・タイムズ(FT)グループを日経が買収することで合意した。FTグループは英有力経済紙FTを発行する。

拡大フィナンシャル・タイムズのウェブサイト

 日本の新聞社が外国の著名新聞を買収するのは前代未聞で、日英の新聞界に大きな衝撃が走った。買収手続きの完了は今年秋以降と見られている。

 買収のニュース発覚以降、さまざまな報道が出たが、実際にFTを一度でも手にしたり、ページをめくってみた人は日本ではそれほど多くないのではないだろうか。

 そこで、ここではFTはいったいどんな新聞かを英国での実体験を交えながら紹介してみたい。

127年の歴史を持つ新聞

 そもそも、FTは英国社会の中でも誰もが読む新聞ではない。大部分の国民にとって、名前を知っているとしても手に取ったことがない人がほとんどで、電子版でさえ読んだことがない人が圧倒的だ。ただ、新聞を店頭で買う習慣を持つ英国人にとって、他の新聞の横にピンク色の新聞が並べられていることを記憶している人は多いようだ。

 FTの創刊は1888年。4ページ組みの新聞で、当初は「ロンドン・フィナンシャル・ガイド」、後に名前を「フィナンシャル・タイムズ」に変更した。

 紙面をピンク色にしたのは1893年で、ロンドンの金融街(シティー)向けの新聞としてライバルとなる経済・金融専門紙と差をつけるためだった。

 1945年、ライバル関係にあった「フィナンシャル・ニュース」紙と合併した。執筆陣はニュース紙から、名前とピンク色の紙面はFTから引き継いだ。当時の販売部数は約3万4000部であった。10万部台に乗ったのは1959年。その2年前には、ピアソン社が所有者となった。

 年を追うごとに部数、読者数、カバーする領域が拡大し、世界経済がグローバル化する中で、各国に特派員を配置してゆく。1979年、初の欧州版が英国の外(独フランクフルト)で発行開始となった。この年、販売部数は20万部を初めて超えた。1980年代初期のキャッチフレーズ「ノーFT,ノーコメント」(FTを読んでいないので、コメントはできない)がよく知られている。

 現在では、国際的な経済・金融新聞としては、米ウオール・ストリート・ジャーナル紙と双璧を成す新聞となっている。約500人の記者を抱え、そのうちの約100人が海外特派員だ。

 FTによれば、読者は世界140カ国にいる約130万人。企業の経営幹部、政府要人、高級官吏、起業家、銀行家、投資家、教育者、学生などという。

 英ABCによると、紙の発行部数は22万部前後。一見、1980年代と変わっていないように見えるが、電子版のみの購読者を含めると、全購読部数は約73万部に上る。実売の約70%が電子版購読者なのだ。

 2002年にメーター制(一定本数は無料で閲読できるが、それを超えると有料購読を勧められる)を導入し、着々と読者を増やしてきたFTは、デジタル戦略が成功した新聞としても知られている。

電子版を増やせた理由とは

 FTの電子版担当役員などに筆者が取材したところによると、電子版の有料購読者増加にはいくつかの理由があった。

 まず、先のメーター制によって、もっと読みたい読者が有料購読に切り替えざるを得ない状況を作った。経済紙であることで、利用者は仕事がらみ、あるいは投資がらみの情報(記事)を閲読している場合が多く、購読を選択してしまう。

 FTは連日大きなスクープを飛ばしているわけではない。通信社の報道よりもスピード感に優れているわけでもない。月曜から土曜のみの発行であるため、週末版のニュースは金曜夜の時点のものにとどまっていることが多い。

 それでもFTを購読してしまうのは、FTを読むことが英国及び世界の経済・金融業界にいる人のスタンダードになっているからだ。まさに「ノーFT,ノーコメント」なのである。

 役員によると、無料登録の段階から有料購読の契約をする過程を「できうる限りシンプルにする」ことも心がけたという。

英国の新聞の読まれ方

拡大フランス製のスキンケア製品が英国で販売されるニュースを伝える

 英国の新聞はジャーナリズムの種類によって、大きくは二つに分かれている。

 一つは大衆紙と呼ばれ、紙面の大きさが小型タブロイド版。3面に上半身裸の女性の写真が掲載される、サン紙が著名だ。スキャンダル記事、ゴシップ、あっと驚くようなヒューマンストリー、スポーツ記事などが分かりやすい英語で書かれている。

 もう一つは高級紙=クオリティー・ペーパーだ。「高級」という言葉の響きにそれほどとらわれる必要はない。実際には日本で言えば朝刊全国紙、地方紙にあたる(英国の大衆紙、高級紙はいずれも朝刊紙)。タイムズ、テレグラフ、ガーディアン、インディペンデント、そしてFTなどが相当する。

 英国の人口は日本の約半分(6000万人)だが、日刊紙のなかでも最も売れているのは前者の新聞、つまり大衆紙だ。それでも、最大規模のものでも、100万部から200万部を売ればよいほうだ。一方の高級紙は最大のテレグラフでも平日版が50万部ほど。英国では新聞を手にする人の大部分は大衆紙を読んでおり、高級紙読者はかなり少ないのが現状だ。この傾向は長年、変わっていない。

 非常に大雑把に言えば、大衆紙は一般読者が広く読み、高級紙は一定の教育程度を持つ知識人が読んでいる。この「知識人」は決して狭い定義ではない。日本の朝刊紙の読者層と重なるので、今、この記事を読んでいるあなた、書いている私も含まれる。

 英国では大衆紙、高級紙に関わらず、どの新聞も独特の視点から報道している。支持政党を明確にし、固定読者がついている。BBC(英国放送協会)を始めとする放送業者による報道が不偏不党を求められるのに対し、新聞はさまざまな事象を好きな観点から好きなように報道できる。読者は新聞独自の視点を読みたいがために新聞を買っており、中立公正は要求されない。

FTの魅力とは

 こうした中、FTの魅力とは何か。市場関係者を含む専門分野にいる人など、仕事上どうしても必要な人を除いた一般読者にとって、大きくは二つあるだろう。

拡大ツイッターを題材にした長文記事。ほぼ1面を使った

 一つは「信頼できる情報が読みやすく書かれている」点だ。

 英国ではどの新聞も一定の癖がある報道をしているが、FTの場合は世界の共通語である経済の報道を基本としていることから、政治的にほぼニュートラル(ただし、前政権の保守党・自由民主党連立政権、及び今回の保守党政権を支持)で、特に凝り固まったイデオロギーは余り感じられない。大部分のほかの新聞が英国民の考えを反映して、欧州への懐疑が報道の根底にあるのに対し、FTは親欧州だ。また、日本を含む先進国のほとんどで共通する、民主主義、資本主義を信奉している。海外報道の充実振りにも定評がある。

 さらに、FTの英語は大体が読みやすく、それほど難しい表現は使われていない。英語圏の有力紙ニューヨーク・タイムズなどに代表される米新聞メディアを読みなれている人からすれば、それらを「凝っている」と感じるかもしれないが、FTの一般記事や社説は読みやすい表現となっている。

 BBCのニュースサイトの英語も非常に読みやすく書かれており、編集部内のチェックを通しているため、内容が信頼でき、調べ物をしているときに辞書代わりに使える。FTの報道もそのような使いやすさ、信頼感がある。

 もう一つの醍醐味は、「編集部が選ぶトピックの選択、幅、深さ」だ。

拡大週末版の雑誌にある「ヨガを楽しむ」コーナー

 FTには一般紙同様に国際情報、政治、経済、社会的事象から文学、アート、演劇、ファッション、ヒューマンストーリーなどが幅広く掲載されている。扱うトピックが広いのは、例えば企業の経営幹部ともなれば、ビジネスの話を追うだけでは十分ではない、という考えがあるからだ。ロンドンで評判の展覧会の話や話題のワイン、映画、演劇、書籍のことも知っている必要がある。それをFTは提供してくれる。

 幅広いトピックを扱うのは一般紙も同じではあるが、何を選ぶのかにFT独自の視点がある。この視点のベースになるのは、「FTを選ぶような読者が知っているべきこと」だ。

 では、FTの読者とは一体どんな層なのか。

 2013年のFTによる調査によれば、購読者となった読者の平均年収は16万ポンド(約3200万円)。国会議員の給与が約7万ポンド、首相が約14万ポンドというから、異常に高いように思えるだろう。

 紙版での購読料は月に1万5000円ほどになり、これだけの金額を払えるような富裕層、あるいは大企業に勤める人、知的エリート層のためのFTといってよいだろう。しかし、これをそのままうのみにすると、「FTは一般市民の手に届かない新聞」となってしまう。大衆紙を読む人が圧倒的に多い英国では、ある面ではこれは真実なのだが、日本の朝刊紙を定期購読し、朝日新聞で言えば「GLOBE」を読むような人であれば、敷居は実は意外に高くない。

 というのも、電子版のみの契約だと(こちらを選択する読者が圧倒的であることは先に紹介した)、月ぎめで22・5ポンド(4500円)に相当し、ぐっと身近になるからだ。法人契約をしてある企業に勤務していれば無料で閲読できることもあって、中流レベルの読者にも門戸が開かれている。

 もしFTが日本語表記で発行されていれば、日経新聞の読者がそのままFTの読者になれるだろうし、他の朝刊紙の読者も流れていきそうだ。

 筆者自身は、FTを読むと、自分が関心が持ちそうな記事、知らなかったトピックが満載で、知的空間が大きく広がる思いがする。

日経が手に入れたもの

 日経がFTを含むFTグループを買収することで手に入れたのは、世界的に著名な経済紙、世界情勢を俯瞰するジャーナリズムとブランド力、そして読者つまりは英語で情報を得る世界の知識層だといえる。

 一つのメディアが誕生し、読者の信頼を受けて、ブランドとして成長するまでには長い長い時間がかかる。そんな新聞を手に入れる日経は、127年の歴史で培ってきた、FTの読者層も一緒に傘下に入れた。この意味は大きい。何物にも変えがたい宝とも言えよう。

 願わくば、 FTの日々の報道を読むことで、独特の空気を吸い、日本のジャーナリズムの活性化に役立てて欲しい。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

小林恭子

小林恭子(こばやし・ぎんこ) 在英ジャーナリスト

秋田県生まれ。1981年、成城大学文芸学部芸術学科卒業(映画専攻)。外資系金融機関勤務後、「デイリー・ヨミウリ」(現「ジャパン・ニューズ」)記者・編集者を経て、2002年に渡英。英国や欧州のメディア事情や政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。「新聞研究」(日本新聞協会)、「Galac」(放送批評懇談会)、「メディア展望』(新聞通信調査会)などにメディア評を連載。著書に『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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