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チャーチルとは誰か

世界を俯瞰する目、決断力とまとめ上げる力、現場主義を学ぼう

小林恭子 在英ジャーナリスト

ボリス・ジョンソンが書いた「チャーチル・ファクター」の日本語版拡大ボリス・ジョンソンが書いた「チャーチル・ファクター」の日本語版
 現ロンドン市長ボリス・ジョンソンが書いたチャーチルの伝記本『チャーチル・ファクター』の日本語版が3月末、プレジデント社から刊行された。

 第2次世界大戦時の名宰相として知られ、英BBCによるアンケート「もっとも偉大な英国人」ランキングで一位になったチャーチル。指導者として何が優れていたのか。日本の政治家が学べるものは何か。

 『チャーチル・ファクター』(原題 The Churchill Factor)は、チャーチルの没後50周年を記念して、2014年秋、英国で出版された。その日本語版への翻訳を、これまでに『サッチャー回顧録』や『ブレア回顧録』(ともに出版社は日本経済新聞社)など、いく冊もの翻訳経験がある石塚雅彦氏とともに筆者が担当した。

 英国ではベストセラーになった原著を通して見えてきた、チャーチルの指導者としての姿や、英国民にどう捉えられているか、現在の英政治家との違い、日本の指導者は何を学べるかを書いてみたい。

首相就任までは波瀾万丈の人生

1945年、ヤルタ会談に集まった前列左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン拡大1945年、ヤルタ会談に集まった前列左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン

 恰幅の良い体に丸い顔。葉巻を口に構え、青い目でこちらをにらみつけているーそんなチャーチルの姿をどこかで目にした方は多いだろう。「戦時中の名宰相」と言われれば、「それもそうかな」と思ってしまうような、納得感がある。

 しかし、一体何が「名」だったのか、具体的には何をどうやって達成し、かつ首相になる前はどんな政治家だったのかというとはっきりとした答えを返せるのは、今や歴史の専門家だけかもしれない。チャーチルの没後から半世紀が経ち、大戦終了時から70年以上が過ぎている。英国人でさえもこの状況はそれほど変わらない。

 そこで、チャーチルの偉業が人々の記憶から消えないうちに記しておこうという試みの1つが、ジョンソンの『チャーチル・ファクター』である。

 自他ともに認めるチャーチル・ファンのジョンソンは金髪のぼさぼさ頭がトレードマークのロンドン市長かつ下院議員。大学卒業後はジャーナリストとして働き、現在も全国紙にコラムを書く。BBCテレビの風刺番組に長年出演してきた経験があり、エリート層でありながらジョークを連発する「面白い政治家」として根強いファンを持つ。

 そんなジョンソンの手による『チャーチル・ファクター』を読むと、チャーチルの首相就任までの道がいかに長く、波瀾万丈だったかがわかる。

 チャーチルは貴族の一人として、オックスフォード州にあるブレナム宮殿で生まれた(1874年)。

 父ランドルフは財務相まで務めた、保守党の政治家。チャーチルは自分も父のようになりたいと望んだが、生前に父と実のある会話をしたことは数回しかなかったという。特に父をがっかりさせたのは学校の成績が悪かったことだ。普通であれば名門イートン校に進むはずだが、当時は一段低いとみられていたハーロー校に送られた。

 勉強嫌いが続いて、大学進学は無理と見た父はサンドハースト王立陸軍士官学校への進学を勧めた。一発では入学できず、3度目の入学試験にようやく受かる始末だった。

 卒業後は軍人としての経験を積み、戦場での経験を新聞に書き、本にまとめるなどジャーナリスト、作家として歩を進める。1900年には保守党議員として初当選。しかし党内での出世は思うようには行かなかった。

 若気の至りもあって党の政策を大批判した後、1904年には保守党から自由党へとくら替えした。24年に保守党に戻ってきたが、同党内からは「裏切り者」、「日和見主義者」と呼ばれ、反チャーチル感情が長く続いた。

 最大の野心は首相になることだったが、1940年5月、いよいよ夢が現実となった。首相としての初答弁で議会に立ったチャーチルを保守党議員たちは沈黙で迎えた。なぜか。

 政党を変えた過去への悪感情がまだあった上に、1930年代半ばからヒトラーの脅威を演説の中で警告してきたチャーチルには「大げさな表現で脅しをかける、変わった人物」というイメージがついていた。

 「好戦的」という見方もあった。これは第2次大戦参戦直前の英国では良くない評価だった。当時、チェンバレン前首相を中心に、いわゆるドイツ融和派が大勢をしめていたからだ。国民の中には第1大戦(1918年終戦)の記憶がまだあり、「戦争はしたくない」という気持ちも強かった。

 数々の逆風の中、首相の座に就いたチャーチル。その指導力が発揮されるのはこれからだった。

特色を挙げるとすれば、まずは決断力

チャーチル元首相の新5ポンド紙幣のイメージ=イングランド銀行提供拡大チャーチル元首相の新5ポンド紙幣のイメージ=イングランド銀行提供

 チャーチルの指導者としての特色を挙げるとすれば、まずは決断力になるだろう。

 1940年5月28日。首相就任からまだ2週間ほどしか経っていない頃だ。内閣の中でさえチャーチルの就任について納得がいかないと思っている人物が複数いた。

 この時、内閣はある決断を迫られる。大陸の欧州他国が次々とドイツ軍に降伏の旗を上げる中、英国はドイツと何らかの交渉をしてヒトラーによる英国侵攻を止めるか、否かを問われたのである。長時間の議論の後、チャーチルはいったん会議を休止する。その後、閣僚全員を一堂に集める。ここでチャーチルは、例え自分の血でのどを詰まらせても戦い続けると熱っぽく語り、その場にいた全員を感動させる。ヒトラーには決して、決して屈しないーこの方針が最後まで続くことになる。

 いざと言うときの決断力。これがチャーチルにはあった。もちろん、むやみに「自分がそう思うから、こうする」と言うのではない。チャーチルは群を抜く情報収集能力を持っていた。かねてより読書量は相当なものだったが、これに加えて大量の資料に目を通し、軍事・情報関係者から話を聞き、独自の情報網を持つことで、必要な時に最適の結論を下すことができた。

 決断にはリスクが伴う。ヒトラーとの交渉を開始しないことで、英国はフランスのようにあっという間に攻撃され、降参する可能性が十分にあった。しかし、そのリスクを覚悟しての決断であった。

 決断をした後は自分の部下や国民の心を一つにまとめ、目的遂行に向かって進ませる必要がある。そのためにチャーチルは演説を、言葉を使った。時には議会で、時にはBBCの放送を通じて、チャーチルは自分の考えを伝え、国民が一丸となるように努めた。

 また、共に働く部下や閣僚の協力を得るために、トップの指導者である自分が最も勤勉に働き、その姿を見せた。

 時には冷酷な決断もあった。1940年7月には、同盟国フランスの艦隊を自ら撃沈し、1200人余のフランス海兵を戦死させた。仏艦隊が敵国ドイツ軍の手に渡ることを防ぐための犠牲である。

英国民から見た、チャーチルとは

1953(昭和28)年、ダウニング街の英国首相官邸で、英女王戴冠式出席のため訪英中の皇太子さまの歓迎昼食会が終わって、玄関まで見送りに出たイギリス首相ウインストン・チャーチル拡大1953(昭和28)年、ダウニング街の英国首相官邸で、英女王戴冠式出席のため訪英中の皇太子さまの歓迎昼食会が終わって、玄関まで見送りに出たイギリス首相ウインストン・チャーチル

 BBCが選ぶ「もっとも偉大な英国人」のトップにチャーチルが選ばれたのは、第2次大戦時のその決断力、指導力によるところが大きい。

 ヒトラーの手から英国を、そして欧州を守った政治家として、チャーチルは今後も敬意と称賛、感謝の対象となるに違いない。

 敬意や感謝の対象になり続ける背景として、英国が戦勝国であるという要素が大きい。日本では、戦争=悪いもの、思い出しくないものと考える傾向が強いのではないだろうか。

 英国の第1次あるいは第2次大戦の記憶は、世界的にけた外れの犠牲をもたらした、今でも大きな爪痕を残す惨事であったという認識とともに、「勝った戦争」でもある。したがって、戦争に参加した軍人は国の英雄(ヒーロー)となる。ヒトラーを負かしたことは輝かしい、自慢できる記憶である。

 そんな輝かしい栄光を主導した人物として、チャーチルがいる。「もっとも偉大な英国人」として選ばれるのも無理はない。

言葉の魔術師、チャーチル

 『チャーチル・ファクター』が詳細するように、チャーチルは言葉の魔術師だった。

 一連の演説を通して、兵士ばかりか国内で軍事態勢を支える国民一人一人を鼓舞したチャーチルは、国民の心の中に入り込んだ。

 その一つが1940年夏の制空権を争う戦い「バトル・オブ・ブリテン」についての演説だ。チャーチルは「人類の歴史において・・・かくも多くを、かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって救われたことはなかった」と述べた。

 「かくも少ない人間」とは、何百万人もの兵士と比べてはるかに少ない英空軍のパイロットを指す。「かくも多くを」で、国民は英国の日常のこまごましたことや、そこに住む国民も含めたすべてを想像する。

 演説は「人類の歴史は・・・」と高邁なトーンで始まるが、誰もが分かる短い英語の語句が連続で続き、聞いている人の心をわしづかみにする表現となってゆく。

 葉巻を口に加え、スーツ姿に山高帽で、一見田舎の紳士にも見えるチャーチルが、いつしか「ジョン・ブル」と言われる、英国人の典型と見なされるようになった。お酒が好きで、ジョークを頻発し、決してあきらめないーそんな人物として。

 戦時の数年間、英国はチャーチルのような人物を必要としていた。チャーチルはその役を見事に演じたと言えよう。

チャーチルへの嫌悪感も

 その一方で、チャーチルを嫌う人ももちろん、いた。

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筆者

小林恭子

小林恭子(こばやし・ぎんこ) 在英ジャーナリスト

秋田県生まれ。1981年、成城大学文芸学部芸術学科卒業(映画専攻)。外資系金融機関勤務後、「デイリー・ヨミウリ」(現「ジャパン・ニューズ」)記者・編集者を経て、2002年に渡英。英国や欧州のメディア事情や政治、経済、社会現象を複数の媒体に寄稿。「新聞研究」(日本新聞協会)、「Galac」(放送批評懇談会)、「メディア展望』(新聞通信調査会)などにメディア評を連載。著書に『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス(新書)』(共著、洋泉社)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)。

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