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大学教育無償化の問題点を考える

アフリカにおける教育無償化の経験から

畠山勝太 NPO法人サルタック理事

 現在、日本では大学教育無償化に関する議論が進んでいるが、一般的にある教育政策が望ましいかどうかを吟味する方法として以下の3つを挙げることができる。

①政策関係者の勘と経験に頼って判断する
②小規模に政策実験を実施して(パイロット調査)、そのプログラム評価に基づき判断する
③他国の政策経験や政策実験から学び判断する

プログラム評価の5つの基準

 もちろん①の政策関係者の勘と経験に頼ることもできるが、21世紀に存在する近代国家が取るべき方法とは到底言えず、②の政策科学的な議論の方が望ましいものである。私が従事する国際教育協力では、パイロットプロジェクトを、経済協力開発機構の開発援助委員会(OECD・DAC)が示している5つの基準に照らし合わせてプログラム評価を行い、これに基づいてスケールアップすべきものなのか判断することが多い。このOECD・DACのプログラム評価の5つの基準とは、妥当性・持続可能性・インパクト・効果・効率の5つである。

 近年の日本の教育政策議論でも、ようやく効果・効率性の基準のみを因果推論の方法を用いて検証したものがエビデンスとして議論の俎上に載せられることが多くなってきたが、やはり残りの3つの基準が見落とされている分、不十分な議論となっているものが多い印象を受ける(例えば、ICTを活用した教育実践は学力テストの成績を向上させないという狭義のエビデンスが出てきた場合、それが目指していたものが国語や算数といった科目の成績向上だったのかどうか、妥当性の観点からよく考える必要がある。恐らく、教育におけるICTの活用は一般科目の成績向上よりも、ICTを活用するスキルの向上の方に妥当性があるはずである。しかし、たとえこのような不十分なエビデンスであっても、何のエビデンスにも基づかない議論よりはましだと考えられる)。しかし、教育政策には倫理的な問題や手法的な問題から政策実験を実施することが難しいものがあり、大学教育無償化政策もその一つである。

 そこで重要になるのは③の他国の経験から学ぶ、という方法になる。教育の無償化と言えば、普遍的な初等教育の実現という国際目標を達成するために、90年代以降アフリカで実施された初等教育無償化の失敗が挙げられる。しかし、現在の日本国内での議論にはその知見が反映されたものはほとんど見られない。日本がアフリカのような途上国から学ぶものは何もないと考えたくなるのが一般的な感覚かもしれないが、先進国では倫理的な問題や制度的な問題から実施できないような政策実験が途上国では数多く実施されており、そこから日本が学べることは多い。そこで本稿では、①アフリカにおける教育無償化政策から得られた教育政策的知見、②日本の大学教育無償化の議論の問題点、③日本が大学教育無償化に踏み切るための前提条件、について議論を進めることする。

① アフリカにおける教育無償化の教訓

中央アフリカの首都バンギ近郊の簡易テントで、授業を受ける子どもたち
 一つ目の教訓は、質が伴わなければ教育へのアクセスが拡大しても意味がないという点である。初等教育の無償化は、望んでいた通りに教育へのアクセスの急拡大をもたらした。しかし、生徒数が急増したにもかかわらず、それに見合うだけの学校建築・教員養成と採用・学習道具の配布といった予算が手当されなかった。このため、教育の質の問題が深刻化し、小学校を卒業しても自分の名前すら書けない子供たちが数多く輩出されてしまった。

平均教育年数が伸びるだけでは経済成長にはつながらない

 質の低い学校教育には意味がない。なぜなら、学校に来る代わりに労働に従事しても、その労働経験からスキルや知識を得ることができるからである。学校教育が生徒たちに、労働に従事するよりも効率的に知識やスキル授けることができなければ、それは学校教育の失敗だと言えるだろう。図1はまさにこの関係を示しており、国民の平均教育年数がただ伸びるだけでは国の経済成長にはつながらず、国際学力調査の成績、すなわち教育成果の高さこそが経済成長へとつながることを示唆している。このため、アフリカ諸国で初等教育へのアクセスが急拡大した割には経済成長も貧困削減も進まなかった。

 さらに、教育の質が低下すると、教育の内部効率性も低下しがちになる。教育の内部効率性とは、教育セクターへの投資がどれだけ効率的に卒業生の排出にむすびついたかを表すものであるが、教育の質が低下すると子供達がその学年内で学びそこなうものが多くなるため、留年率が上昇する。例えば、私が現在仕事をしているマラウイ共和国は、小学校の各学年での留年率が20%以上もあるため、2/3以上の女の子たちは小学校を卒業する前に児童婚の年齢に達してしまい、小学校を卒業することなく退学していく。このように、留年者率が上昇すると退学者も増加し、卒業に結びつかない教育投資が増えてしまうが、さらに延べの学生数も増加するため、追加で教員を採用したり、教室を建築したり、学習道具を購入する必要が出てくるため、余計なコストも発生する。これに加えて、留年を一年すると働ける期間が一年間短くなるわけで、その分の労働収入を諦めることとなる(放棄所得)。この一年分の授業料と放棄所得の分だけ、教育の収益率も低下する。

 このように、アフリカの初等教育無償化は教育の質を担保するための予算が伴わなかったため、教育の質の問題が深刻化し、教育を受ける意味がなくなるどころか、留年率の上昇によって無償化した授業料分以上のコストが発生した。

高学年まで学校に残れなかった貧困層の子供たち

 二つ目の教訓は、教育の無償化だけでは貧困層の子供たちは高学年まで学校に残ることができなかったという点である。これには様々な理由があるが、まず放棄所得の負担が挙げられる。先ほども言及したが、教育を受けると、その間働いて得られたであろう所得を放棄せざるを得なくなる。家計に余裕があればこの放棄所得にも耐えられるであろうが、児童労働からの収入に頼らざるをえないような貧困層だと、この放棄所得に耐えられず子供を学校に送ることが出来ない。また、非貧困層であれば、たとえ手持ちの一時資金が教育を受けるためには十分でなかったとしても、銀行や親戚などから借り入れることが出来るかもしれないが、貧困層は担保となるものや周りに余剰資金を持つ人物がいないため、資金を借り入れて教育を受けることが難しい場合が多い(借り入れ制約)。

 第二に富裕層と貧困層の間に存在する教育の価値に関する認識の差異が挙げられる。貧困層は富裕層と比較して、自身が教育を受けていないだけでなく、周りにも教育を受けた人物がいない。このため、教育を受けることの価値を実感できる機会が限られているため、教育の価値を過小評価しがちになり、仮に教育を受けることのメリットが放棄所得を上回っていたとしても、退学という選択を選びがちであった。

 第三に貧困層と富裕層の特性の差異が挙げられる。富裕層と比較したとき、貧困層は未来のより大きな利益よりも現在の利益を重視する傾向がある(時間割引率が高い)。このため、働いていれば得られたであろう現在の所得を放棄して教育を受けて、将来より大きな所得を得るという行動を回避しがちになる。これに加えて、貧困層は富裕層よりもリスク回避的な傾向がある。教育投資は平均すると比較的高いリターンが望めるものの、それは絶対というわけではなく、学ぶ内容やその後に就く仕事の内容によってはマイナスのリターンとなることもあり得る。貧困層ほどこのような不確実性を嫌う傾向があるため、教育を受けるという選択を回避しがちであった。

義務化を伴わない教育無償化が貧富の格差を拡大

 三つ目の教訓は、義務化を伴わない教育の無償化は、貧富の格差を拡大させる働きがあったというものである。これは、仏語圏アフリカを中心に高等教育が無償化されている国の経験から明らかとなったことだが、高等教育が無償化されても、そこにたどり着く貧困層はほとんどいなかった。なぜなら、試験による選抜で振り落とされるだけでなく、無償化だけでは上で述べた理由により貧困層の子供が学校に来るのではなく、労働を選択するケースが大半となってしまうからである。このため、高等教育にアクセスできない貧困層が働いて納めた税金で、エリート層が高等教育を受け、教育システムが貧富の差を拡大させるという状況が出現してしまった。

② 日本の大学教育無償化の議論の問題点

 日本の大学教育無償化の議論の問題点は、上で言及したアフリカにおける教育無償化から得られた教訓をほとんど顧みていない点にある。さらに、賛成側・反対側双方にその主張に問題をはらんでいる。

大学教育無償化は少子化対策としては効果的ではない

 賛成側の議論の問題点は大学教育無償化を少子化対策として見ている点である。これは教育費負担が軽減されることによって、二人目の子供を安心してもうけることができるという考えに基づいているが、大学教育無償化は次の二点から少子化対策として効果的ではないと考えられる。

 まず、基本的に教育の拡大、とりわけ女子教育のそれは人口増加を抑制する働きを持つ。世界規模の課題の一つとして人口爆発を挙げることが出来るが、これの特効薬として考えられているのが女子教育の普及である。これには様々な理由があるが、

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