2017年10月18日
1945年から1952年までの7年間、日本は占領下にあり、政治・行政の最終的決定権は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)にあった。
間接統治方式をとっていたので、日本も内閣を組織していたが、最終的決定はGHQ(正式にはGeneral Head Quarters, Supreme Commander for the Allied Powers)のトップであるダグラス・マッカーサー元帥にあった。マッカーサーの任期は1945年10月2日から1951年4月16日まで、マシュー・リッジウェイ中将が第2代最高司令官に就任し(就任後大将への昇進)1952年4月28日の占領終了まで務めている。
占領下ではあったが、戦後日本の政治・行政の基本的枠組みはこの時期に作られたのだった。GHQで当初影響力が強かったのが民政局(Government Section-GS)。局長はマッカーサー司令官の分身と呼ばれたコートニー・ホイットニー准将。次長はチャールス・ケーディス大佐。アルフレッド・ハッシー中佐、マイロ・ラウエル中佐とともに民政局で強い指導力を発揮した。
この3人はともにハーバード大学出身のインテリだ。とくにケーディスはフランクリン・ルーズベルト大統領のもとでいわゆるニューディール政策推進に尽力したのだった。また、ケーディスのもとにはトーマス・ビッソン、ミネソタ大学教授のクイグリー教授・ノースウェスト大学のケネス・コールグローブ教授等多くの日本研究の専門家が参加していた。
現在の日本国憲法は1946年2月4日から2月12日の9日間でGHQによって作られたのだが、その中心になったのが前述した3人のハーバード・グループだった。
日本国憲法作成は民政局が中心となって行われ、ケーディス・ハッシー・ラウエルの3人が運営委員として七つの小委員会(立法権・行政権・人権・司法権・地方行政・財政・天皇)を総括し、憲法草案をまとめたのだ。翌日の1946年2月13日、GHQ草案は日本側の吉田茂外務大臣等に手渡されたのだった。
そして、1946年6月20日、第90回帝国議会が開催された日、GHQの草案が衆議院に提出され、審議が行われたのだった。占領下であり、GHQ草案を改正することは極めて困難であったが、ただ一点、芦田修正と呼ばれた修正が行われ、GHQもこれを受け入れたのだ。
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