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[39]賃上げ政策を阻む見えない収入削減策

低所得層の底上げこそが、消費の活性化と景気の浮揚のカギだということを忘れるな

竹信三恵子 和光大学教授・ジャーナリスト

 政府の賃金上げ政策が次々と報じられている。最低賃金引き上げ、介護士・保育士の賃上げ策、賃上げ企業への税優遇案、副業・兼業の容認、さらに、安倍晋三首相が経済界に来年春闘での賃金アップに協力を要請する異例の動きまで飛び出した。

 だが、収入の底上げは、なお疑問だ。華々しい賃上げ政策の陰で見えない収入削減策ともいえる動きが進んでいるからだ。

賃上げ政策ラッシュ

 このところの賃上げ政策は、ラッシュとも呼べそうな勢いで繰り出されている。

 2016年6月に閣議決定した「ニッポン一億総活躍プラン」に最低賃金の年3パーセント程度の引き上げが盛り込まれ、最低賃金は2年連続で引き上げられている。また、高収益を上げている企業からの利益吐き出しへ向け、2018年度の税制改正で賃上げや設備投資に積極的な企業の法人税の実質負担を下げる案も打ち出された。ここでは、3パーセント以上賃上げした企業の税額控除を増やし、賃上げしなかった企業には、一定の条件を満たした企業に適用する租税特別措置を一部、適用できなくするという「アメとムチ政策」も取るという。

 首相も、春闘での3パーセント賃上げへの協力を経済界に要請。少子高齢化や女性活躍で需要が増している介護士・保育士の確保へ向け、今年11月には国会で、2019年に予定される消費増税を財源に、これらの職種の賃上げを目指すと明言した。

 このほか、企業が就業規則を決める際に参考にされる「モデル就業規則」を厚労省が見直し、副業や兼業を禁止する項目を削除する方針も打ち出した。働き手の自助努力による増収作戦ともいえる作戦だ。

 こうした賃上げ策ラッシュの背景には、アベノミクス下で企業収益は増える一方、働き手の実質賃金が容易に増えないことへの批判の高まりがある。

 低賃金で不安的な非正規の働き手の比率は増え続けて働き手の4割近くに達し、2014年に連合が実施した調査では、いまや非正規の3人に1人が世帯の主な稼ぎ手だ。その4分の1は貯蓄ゼロで、貯蓄100万円未満を加えると半数にのぼる。一定以上の収入がある正社員層の賃金が多少増えても、年金や公的介護システムの不備への不安から、賃上げ分は老後のための貯蓄に回る公算が大きい。

 だが、賃上げ政策がこうした低所得層の収入向上に結び付けば、増収分は日々の消費に向かうため、景気の改善に役立つ可能性は高い。最低賃金の引き上げや、首相の賃上げ要請がパートなどの非正規も含むものとされているのは、そのためだろう。

見えない収入削減策

 問題は、賃上げ政策の一方で、こうした低所得層の収入削減を招く政策が、政府自身の手で進められていることだ。そのひとつが生活保護費の削減だ。

 厚労省は8日、来年度の生活保護費見直しで、食費や光熱費などに充てる「生活扶助」を最大1割程度、引き下げる案を社会保障審議会の部会に提示した。

 同省の資料では、生活保護受給者数は今年2月現在で214万人。数からいえば非正規労働者の10分の1程度で、一般の働き手とは無縁の一部の極端な貧困層のことのように考えられがちだ。だが、非正規化が5人に2人を占める中で、生活保護受給者と賃金をもらっている働き手の間の垣根は極めて低くなっている。

 2017年10月25日付「日本経済新聞」は、給料日が来る前に生活費が足りなくなってしまう働き手のために、働いた分の賃金を早めに支給するシステムを提供する業者が急増していることを報じている。給料日まで生活費が持たないような非正規の働き手が貯蓄もできないまま契約更新を打ち切られ、生活保護でとりあえず生存を支えるという事例は目立っている。また、正社員の間にも、成果給の普及によって賃金が大きく変動し、生活保護を受けて苦境をしのいだという例が出てきている(拙著『正社員消滅』朝日新書、2017年)。

 加えて、生活保護基準の引き下げは、受給者だけでなく、かろうじて賃金だけで生活を支えている低所得層に大きな影響を与えかねない。国民に保障される生活水準の最低限度である生活保護基準が下がると、住民税の非課税基準も下がり、無税だった人が課税される可能性が出てくる。住民税が非課税かどうかは、医療、介護、福祉、教育など、多数の制度で「低所得」として減免するかどうかの線引きにも使われているため、安かった保育料や、介護保険の自己負担限度額が上がり、就学援助が受けられなくなる家庭も出てくる。

 しかも、安倍政権の目玉とされている保育料や大学の授業料の無償化は住民税の非課税世帯を対象に実施されるため、無償化の対象は狭まる。これでは最低賃金が上がって賃金が多少増えたとしても、出費が増えて可処分所得は減る家庭が増えてしまう。

相次ぐ非正規切りの動き

 賃上げ策は、賃金そのものを失った人々には効果はない。ところがいま、こうした事態を招く非正規の契約打ち切りも新たにクローズアップされている。改正労働契約法によって無期雇用に転換される権利が生まれそうな非正規を、雇止めする動きが目立っているからだ。

 2013年度から、5年を超えて雇われてきた有期雇用の働き手が希望すれば、無期雇用に転換される改正労働契約法が施行された。5年超えが始まる来年度から無期転換の権利を持つ非正社員が登場するわけだが、それを前に、有期契約の働き手の契約が打ち切られる事態が起こり始めている。

最後の出勤に出かける渡辺照子さん(12月6日、東京都内で撮影、レイバーネット日本提供)拡大最後の出勤に出かける渡辺照子さん(12月6日、東京都内で撮影、レイバーネット日本提供)

 東京都に住む渡辺照子さん(58)は、今月6日、派遣社員として17年間働いてきた会社の最後の出勤日を迎え、職場へ向かった(写真)。3カ月契約を何度も繰り返し、来年9月に次の更新があれば、労働契約法の規定で5年を越して無期の社員に転換される可能性があった。

 だが、2015年に労働者派遣法が改定され、同年10月から渡辺さんら登録型の派遣社員は同じ部署では3年までしか働けないことになった。このとき、会社から3年以内で契約は打ち切ると通告されて5年超えは難しくなり、無期転換の期待は断たれた。今年10月、満3年より9か月早い12月末日での契約打ち切りが通告された。

 シングルマザーで老親の介護も抱える渡辺さんにとって、転職は極めて難しい。

 「長期にわたって正社員とほぼ同じ仕事を懸命にこなしてきたのだから、どこかで正社員に転換してもらえるかもしれない、という期待にしがみつくしかなかった」と言う。派遣会社からは、介護や清掃への派遣以外の紹介は難しいと言われたが、それでは収入は大幅に下がり、家族は支えられない。

 周囲の派遣社員たちにも同様の例が出ているという。2015年の改定で契約が3年で打ち切られることになったが、代わりに派遣先の直接雇用を派遣元が要請するなどの雇用安定化措置が努力義務となった。

 これを受けて、派遣社員から派遣先の直接雇用の契約社員に転換できた同僚もいないわけではない。だが、その場合も「5年で契約打ち切り」の条件が契約書に書き込まれ、それを飲まないと仕事を得られない。ここでも無期転換の道は断たれている。

 政府のおひざ元である東北大学、大阪大学などの国立大学でも、非常勤職員などを5年で雇い止めする就業規則に盛り込む動きが広がっている。

 厚生労働省は昨年、福島瑞穂議員ら野党からの質問に答え、「無期転換を避けることを目的として無期転換申し込み権が発生する前に雇い止めをすることは労働契約法の趣旨に照らして望ましいとは言えない」「無期転換ルールを免れる目的で雇い止めをしているような事案を把握した場合には、都道府県労働局におきましてしっかりと啓発指導をしていきたい」と国会で答弁。文科省もこれを踏まえた連絡を各大学に出し、東京大学では今月、労組の求めに応じ、従来からあった非常勤職員への5年の上限を撤廃した。だが、官民にまたがる政府の実態調査や積極的な防止策には至っていない。

生産性向上との抱き合わせの危うさ

 政府が賃上げを求めるだけなら、会社によってはそのコストアップを非正規の雇い止めなどによって吸収しようとする動きも出かねない。

 生産性向上を掲げる「働き方改革」は、その動きに拍車をかける恐れがある。今月13日に日本経済新聞がまとめた「社長100人アンケート」では、6割が「イノベーション創出」「生産性向上」などのため人材投資を増やすと回答したが、「3%賃上げ」を検討すると答えた経営者は1割にとどまった。賃上げより生産性向上に熱心な空気の中で、「一人当たりの生産性向上」を強く打ち出す「働き方改革」に沿って、会社がAI化などによる人減らしに動く可能性は高い。これでは、仮に会社に残った社員の賃金は上がって見かけの賃上げが起きたとしても、残れなかった人々は、渡辺さんのように収入ゼロ、ということになる。

 こうした人々にとっての最後の安全ネットといわれる生活保護の基準引き下げが進めば、国民総体の所得水準はむしろ下がる恐れさえある。改憲を進めるための有権者の支持取り付けでなく、国民全体の所得を真にあげるためには、隠れた収入削減策も視野に入れた収入向上策が必要だ。低所得層の底上げこそが、消費の活性化と景気の浮揚のカギということを、忘れてはならない。

追記:批判の中で15日、最大5パーセントに抑える方針に切り替えたものの、国民の収入引き上げに逆行する動きであることは変わらない。


筆者

竹信三恵子

竹信三恵子(たけのぶ・みえこ) 和光大学教授・ジャーナリスト

和光大学現代人間学部教授。東京生まれ。1976年、朝日新聞社に入社。水戸支局、東京本社経済部、シンガポール特派員、学芸部次長、編集委員兼論説委員(労働担当)などを経て2011年から現職。著書に「ルポ雇用劣化不況」(岩波新書 日本労働ペンクラブ賞)、「女性を活用する国、しない国」(岩波ブックレット)、「ミボージン日記」(岩波書店)、「ルポ賃金差別」(ちくま新書)、「しあわせに働ける社会へ」(岩波ジュニア新書)、「家事労働ハラスメント~生きづらさの根にあるもの」(岩波新書)など。共著として「『全身○活時代~就活・婚活・保活の社会論』など。2009年貧困ジャーナリズム大賞受賞。

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