2018年02月19日
一般的には日本歴史の分析では明治維新で日本が大きく変化し、「近代化」への歩みを始めたとされている。そして明治以降、リーダーシップを取った薩摩と長州がその動きを加速していったとされているのだ。歴史は「勝者」によって書かれるもの。藩長が江戸幕府を否定し、自らの役割を強調したのは、その意味では自然なことだったのだろう。
しかし、黒船の到来を機に開国政策に踏み切り、近代化を目指したのは、江戸幕府の老中たちだった。
老中阿部正弘(1843年・天保14年に25歳で老中・1857年・安政4年・老中在任のまま江戸で急死。享年39歳)は1854年-嘉永7年、日米和親条約を締結し、鎖国政策を終わらせたのだった。
阿部正弘は勝海舟・大久保忠寛・永井尚志等を登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学校等を創設している。後に講武所は日本陸軍・長崎海軍伝習所は日本海軍・洋学所は東京大学の前身となる。また、阿部は西洋砲術の推進、大船製造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んでいる。
阿部に次いで老中になったのが堀田正睦。(1837年・天保8年から1858年安政5年まで老中)堀田も、また、開国政策を推進したのだった。ただ、堀田は開国について勅許を得ようとし失敗。孝明天皇の強硬な攘夷論を覆すことは出来なかったのだ。ちなみに、「尊皇攘夷」を掲げ力をつけていたのが薩摩と長州。幕府の開国政策を強く反対していたのだった。
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