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創業100年のパナソニック、モノづくりに底力

大きな商機もたらす車載関連事業、営業利益を重視する方向性が明確に

片山修 経済ジャーナリスト、経営評論家

記者会見で中間決算について発表する津賀一宏社長=2017年10月31日
 今年3月、パナソニックは、創業100周年を迎える。その歩みは、日本経済の歩みと軌を一にしてきた。パナソニックを見れば、日本の製造業の強さ、弱さが透けて見える。世界経済には、グローバル化、IT化、ネットワーク化などの激しい変化が押し寄せる。この大波を、〝100年企業〟パナソニックは、いかに乗り越えようとしているのか。

 よく知られているように、創業者の松下幸之助は、9歳で船場に丁稚奉公に出された。火鉢店から自転車店と移り、お使いの途中、大阪の街を走る市電を見て、電気事業の将来性を予感した。15歳で大阪電灯に転職、22歳で独立し、松下電器産業の前身となる松下電気器具製作所を設立した。妻と義弟との3人で、アタッチメントプラグと二股ソケットの生産からスタートした。今流に言うと、ベンチャーのはしりだ。

 4年後には、50人を抱える立派な町工場に成長。その後、「ナショナル」の商標のもと、ランプ、アイロン、ラジオ、電気こたつなど家電製品を世に送り出すほどのモノづくり企業に発展した。幸之助は、「水道から水を飲むように、誰でも自由に家電が使える社会をつくりたい」と考えた。世にいう「水道哲学」である。

松下電器産業は、戦前、すでに従業員3500人を超える大企業になっていた。

日本型経営を実践する世界的企業に成長

 戦後、松下電器は、昭和30年代の高度成長の波に乗って、〝三種の神器〟と呼ばれるテレビ、洗濯機、冷蔵庫など耐久消費財を生産販売し、業績を飛躍的に伸ばした。昭和30(1955)年には販売高220億円、経常利益21億円だったが、昭和40(65)年には販売高2035億円、経常利益200億円と大幅に増大。従業員も1万1545人から3万8688人を数え、一大家電王国を築き上げた。参考までに、17年3月末時点の海外を含めた従業員数は、25万7533人にのぼる。

 普及価格帯の高品質な家電の数々は、主婦を家事から解放するなど国民生活を底上げした。

 松下電器は、その後も終身雇用、年功序列型賃金制度、企業別組合を軸とする日本型経営を実践する代表的企業として、世界企業に成長し、ジャパンアズナンバーワンの時代を支えた。

 幸之助は、多くの画期的な経営手法を次々と生み出し、多くの企業に影響を与えた。その代表例は、33年に国内企業として初めて導入した「事業部制」だ。各事業部は、傘下に工場と出張所を持つ。製品の開発、生産、販売、修理まで、一貫して事業部が責任をもつ「自主責任経営体制」をつくり、同時に経営者の育成を目指した。事業部制やその考え方は、いまなお多くの企業に採用されている。

 働き方でも、先鞭をつけた。65年に、日本初の完全週休二日制を導入。「質の高い労働のためには休養もしっかりとらなければならない」とし、「一日教養、一日休養」を唱えた。いま流にいうワークライフバランスで、現代にも通じる考え方だ。

IT化など世界経済の構造変化についていけなかった日本の電機メーカー

 日本経済は1991年、バブル崩壊に直面し、「失われた20年」を迎えた。松下電器もまた、停滞期を迎え、「変われない日本企業の象徴」といわれた。雇用、設備、債務の三つの過剰に苦しめられ、構造改革に明け暮れた。経営は内向きになった。

 結果、情報化の波に乗り遅れた。95年に登場したマイクロソフト「Windows 95」に象徴されるように、コンピュータは、メインフレームからPC(パーソナルコンピュータ)の時代に移り、各家庭にまでPCが入り込むと同時に、企業も、製品、生産現場、マネジメントなどあらゆる分野で、IT化が一気に進んだ。日本の電機メーカーは、ITを軸とした90年代の世界経済の構造変化についていけなかった。アナログとハードの技術から、デジタルとソフトの技術への転換に対応できなかった。松下電器に限らず、日本の電機産業は、衰退の道をたどった。その時期に、韓国、中国をはじめとする新興国メーカーが台頭した。

世襲からの脱却

 2000年6月、五代目社長の森下洋一氏は、業績の長期低迷を脱するべく、次期社長として幸之助の孫である副社長の正幸氏を選ばず、専務の中村邦夫氏を指名した。正幸氏を副会長に棚上げして、創業家トップによる経営へのタッチを断ち切った。ちなみに、正幸氏はその後、代表取締役副会長を長く務めていたが、17年6月に取締役に降格した。世襲からの脱却である。

「社長になってすぐ、〝純現金有高〟はなんぼか、と経理に聞いたら、わずか400億円しかなかった。会社がつぶれそうなときでも、その自覚はまったくなかったんです」
と、中村氏は振り返る。

 経営に外部の視点を導入すべく設けられたアドバイザリーボードのメンバーの一人で、現在、同社社外取締役を務める政策研究大学院大学教授の大田弘子氏は、当時を次のように振り返る。

「社内のすべてが仰々しく、忖度とリスクヘッジの塊で、組織に目詰まりが起きていた。商品開発は技術者が圧倒的に強いにもかかわらず、デザインは軽視され、消費者目線とは程遠かった」

「破壊と創造」掲げ構造改革、社名変更も

 中村氏は、「幸之助の経営理念以外、すべてを見直す」と公言し、「破壊と創造」を掲げた。事業部制の解体、家電流通の見直し、早期退職制度の実施、事業ドメイン再編などを断行した。02年3月期の連結決算は、売上高は前年比マイナス10%となったことに加え、早期退職者の特別退職加算や拠点統廃合などの事業再編コストがかさみ、最終損益は4310億円の大赤字を計上。しかし、構造改革の成果が表れ、翌03年3月期には営業利益1266億円を計上、V字回復を達成した。06年、中村氏の後任として社長に就任した大坪文雄氏は、中村氏の改革路線を引き継ぐとともに、08年、社名を松下電器産業から「パナソニック」に変更。さらに、11年には、パナソニック電工と三洋電機を完全子会社化した。

 社名変更や完全子会社化は、当時、社内外から多くの批判を浴びた。しかし、

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