規制緩和の攻防、「52年ぶり開設」への歩み
2018年04月21日
愛媛県文書の発覚で再燃した「加計問題」。加計学園が愛媛県今治市に新規開設した岡山理科大獣医学部は、第1期目の入学者を迎え、ひっそりスタートした。52年ぶりの獣医学部新設に安堵しているのは国家戦略特別区域(国家戦略特区)で規制緩和を実現した内閣府や加計学園理事長の加計孝太郎氏ら。これに対し、これまで規制を続けてきた文部科学省と新設に反対してきた日本獣医師会は複雑な心中で見守る。
獣医学部新設の評価は、内閣府など規制緩和を進める立場と、文科省や日本獣医師会など従来の規制を守る立場で、全く異なる。筆者はいずれの立場でもなく、中立の立場から「52年ぶり開設」の意味を考えてみたい。
獣医学部の特殊な事情から説明したい。教育年限は医学部、歯学部、薬学部と同様、原則6年制(一部獣医師養成課程以外の学科で4年制がある)。医学部同様、人類の生命や生活の安全に直結する職種に就く人材を育成するためだ。2006年に6年制が認められた薬学部同様、以前は4年制だった。
獣医学部の6年制が実現したのは、1970年以降、獣医師会が当時の文部省や農林省などに教育年限の延長を陳情してから、現在の6年制が実現する84年まで14年を要した。さらに遡れば、戦後、占領軍総司令部(GHQ)が日本政府に教育改革を命じ、医学、歯学、獣医学教育を6年制とすることなどを求めたが、獣医学だけがそのまま放置され、6年制の実現まで約40年かかったのだ。
獣医学部は国家資格に基づく獣医師を養成するほか、獣医学を研究する。獣医学は生物学に基礎を置く応用化学で、人類や動物の福祉に貢献する使命がある。カリキュラムは医学部とほぼ同じで、倫理や法規などの基礎分野に続いて、内科や外科などの臨床科目から、生理、解剖、薬理などの実習科目まで幅広く学ぶ。
獣医系大学生の卒業後の進路は大きく4つある。最も多いのは、犬や猫などの小動物臨床分野だ。
次に多いのが、国や地方自治体の公務員として公衆衛生や食品衛生に従事する分野。食肉検査、輸入や食品の安全性検査、飲食店の衛生状態の検査など食の安全に直結する仕事だ。また、牛や馬、豚などの家畜の病気の予防と治療に従事したり、鳥インフルエンザ対策もしたりする産業動物臨床分野、さらにこれら以外の民間団体で医薬品の開発に従事する民間・研究分野等がある。
このほか、獣医学部出身者は社会の様々な分野で広く活躍しており、筆者が日本経済新聞社勤務をしていたときも、獣医学部出身の記者がいた。
農林水産省の調べによると、全国に獣医師は16年12月末時点で約3万9000人いる。犬や猫などの小動物臨床を手掛ける民間施設で働く獣医師が約45%、検疫などに対応する公務員が約24%(うち公衆衛生が14%)、民間研究分野など民間団体職員が約20%、その他が結婚を機に辞めた人など獣医事に従事しない人が約11%などとなっている。
獣医学部が文部省に最後に認可されたのは66年の北里大。それ以降、新設は認められなかった。医学部が全国80大学まで拡大したのに対し、獣医学部は全国16大学(国立10、公立1、私立5)。年間定員も930人で1980年代から固定されていた。
獣医師を規制する獣医師法を所管するのは農林水産省だ。農水省が獣医師国家試験を実施し、獣医師の合格者数を制限してきた。この規制方針が実に50年以上も続いてきたのである。
強力な規制に風穴を開けようとしたのが、過疎と土地の有効活用に悩む愛媛県今治市だった。
市は1975年に大学誘致を目指す学園都市構想を決定。その後、土地バブル期に人口や経済状況の将来推計を大きく誤り、市の起債規模は年間の予算規模に匹敵する861億円にのぼっていた。にもかかわらず、既に用地確保に着手していたこともあり、大規模開発計画の推進を見直すことにならなかった。同市では01~03年にかけて、松山大総合マネジメント学部を新設する構想が持ち上がったものの、学内で反発が根強く頓挫した。確保した用地は塩漬けとなった。
その後、岡山理科大獣医学部の創設は、市にとって渡りに船だったのは言うまでもない。地元シンクタンクが市の予測通りに獣医学部の経済効果をはじくと全学年がそろった段階で年間20億円になるという。市は約37億円の建設予定地を大学側に無償譲渡し、開発経費の半分に相当する約96億円を上限に複数年かけて補助金を交付する方針。県も市の誘致計画を支援してきた。
文科省などが守ってきた規制を打破して今春新設されたのが、加計学園が今治市に開学した岡山理科大獣医学部だ。獣医学科の定員140人に対して入学者は147人、獣医保健看護学科が定員60人に対して39人を迎え入れた。国際的に通用する人材を養成するために、獣医学科75人、獣医保健看護学科で13人の教員組織を備えるという。
獣医学部の学部長には東大や北里大名誉教授の吉川泰弘氏が就任した。吉川氏は東大院修了後、厚生労働省の技官として勤務するなどした獣医学の権威。加計学園が04年に千葉県銚子市に開学した千葉科学大学副学長などを歴任している。
政府は「手続きプロセスに瑕疵はなく、適正に行われた」としている。今治市が15年6月、国家戦略特区を申請し、政府は16年1月の国家戦略諮問会議で今治市を選定。16年11月の同会議で先端ライフサイエンス(生命科学)研究や地域における感染症対策など新たなニーズに対応する獣医学部の設置が決定され、内閣府が事業者を公募し、加計学園が名乗りを上げた。文科省の大学設置・学校法人審議会(設置審)、獣医学の専門家からなる専門委員会で、同グループの岡山理科大獣医学部の設置計画案を審査した。
専門委は当初、入学定員が多いこともあり、いったん認可を留保したものの、定員を20人減らし140人とするなど「改善がみられる」として、最終的には問題ないと結論付けた。設置審の答申に基づき林芳正文科相が17年11月に同大計画案を認可。予定通り18年4月の開学が実現し、第1期の学生が入学し、勉強を始めている。
ただ、手続きプロセスを振り返ると、政府は岡山理科大獣医学部が政府要求の4条件を満たしているのを前提に、設置審で議論の俎上にした面もある。実質的な審査を担った専門委の委員は「修正後の計画案も当初とあまり代わり映えしなかったので、本来であれば、来春以降再審査に回すべきだった。18年4月の開学が前提にあったのだろう」という。
設置審の専門委でどのようなやり取りがあったのかはグレーのままだ。文科省は17年12月に設置審などの議事要旨を公開するにとどまり、専門委の議事要旨は「自由闊達な意見交換を妨げる」などを理由に非公開とされた。そうであれば、発言者の名前を伏せれば事足りるはずだ。そのプロセスはとても透明とは言えない。
特区活用による獣医学部の新設には政府内で対立があった。麻生太郎財務相兼副総理は16年11月の国家戦略特区諮問会議で、松野博一文科相に弁護士や柔道整復師の例を引き合いに「規制緩和は大いにやるべきだ。しかし、うまくいなかった時の責任は誰がとるのか」と注文を付けた。
麻生氏は自民党獣医師問題議員連盟の会長を務めるなど同会と関わりが深い。獣医師会へのポーズかもしれないが、責任論を持ち出して規制緩和をけん制した格好だ。
当時獣医師会は与野党議員に対して、新設の阻止もしくは新設は1校に限るとしてロビー活動を展開していた。麻生氏の発言に対して、松野文科相は何も返答していない。発言したのは規制緩和推進論者で国家戦略特区ワーキンググループ座長も務める八田達夫民間有識者議員。八田氏は獣医学部について「競争させないとダメな学校でも退出させられない」と反論した。
いったん規制緩和すると、行政が再規制で介入するのは難しくなる。私大の場合、撤退するかしないかは個々の参入者の経営判断でしかなくなるためだ。
2000年代に国家資格の専門職を増やす狙いで、新設された法科大学院や会計専門職大学院の悪しき前例がある。相次ぎ設立された専門職大学院は数年で期待された成果を上げることができなかったことが露呈。入学希望者が激減し、定員割れを余儀なくされ、一部は撤退するなど当初の想定とは異なる末路をたどっている。
なぜ50年以上もこのような規制が続いたのか。最大の理由は、獣医師は1人も増やさないという日本獣医師会の徹底した方針と、獣医学部設置の認可権を握る文科省の利益が一致していたからだ。獣医師の権益、とりわけ過半数を占める小動物獣医師の過当競争を避けること、既存の私立大の既得権益を守る必要があったのだ。
愛媛県と今治市が10年に構造改革特区や地域再生の観点から、獣医学部の新規設置を申請した際、真っ先に反対したのが獣医師会だった。
獣医師会の反対声明によると、獣医師会は「全国各地の獣医系大学が入学志願者を入試選抜により公平に受け入れており、獣医学教育の場としての大学の立地自体が教育の機会均等などを損なうものではない」と主張。「獣医師は医師や歯科医師など他の高度専門職と同様、全国的視点に立ち、その質の確保とともに需給政策と一体的に運営すべきものと考える」とし、「新卒者の特定職域および特定地域就業義務付けが困難である以上、獣医の職域分布の偏在是正に応え得るものではない」と痛切に批判している。
獣医師会は当初、強硬に新設撤回をもくろんだが、政府の国家戦略特区活用への姿勢は強硬と判断。岡山理科大と京都産業大の2校が獣医学部新設を目指していたが、新設を認めるのを1校に限ることで折り合った。
政府側はこの経緯を踏まえ、1校に絞ったのは獣医師会からの要請だったとあえて明らかにした。安倍首相の友人が理事長を務める加計学園に有利な取り計らいをしたのではないとアピールする狙いがあったとみられる。
獣医師会側も、会長らの粘り強いロビー活動の結果、1校限りの規制緩和になったと会員に説明している。双方の主張は当初は真っ向対立していたものの、結局は、双方ともメンツを保った格好だ。
ただ、政府側は1校に限ることで収まりそうにない。諮問会議の民間有識者議員の八田氏は17年6月、前川文科省前次官が炎上させた加計問題の火消しのため諮問会議有識者議員として、国家戦略特区に関する異例の記者ブリーフィングを実施した。「特区諮問会議民間議員および特区ワーキンググループは一貫して、『1校』などと 限ることなく、広く門戸を開くべきとの立場である。今後も、更なる新設に向けて、改革を続行するつもりである」と述べた。
同席した竹中平蔵氏らも援護した。ここでも獣医師会の要請であくまで「1校に限る」を優先したのであって、岩盤規制打破の成果を強調した。
海外では獣医学の講義や実習のために100~200人の教員と補助者を配置し、入学定員数は教える側1人に対してほぼ同数、100~200人だ。
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