牛肉か車かのジレンマから脱出する方法を探る
2018年08月14日
日本側から見た、日米貿易協議の論点は二つである。一つは、アメリカ産農産物の日本市場へのアクセス問題、特に牛肉の関税引き下げ要求をどう処理するのか。二つ目は、アメリカが安全保障を理由にして自動車の関税を引き上げようとしていることを回避することである。これらについて、少し解説をしよう。
日本政府の心配・懸念は「アメリカはTPPに復帰するのではなく、日本に圧力をかけやすい日米FTA(自由貿易協定)交渉を求めてくるだろう、その時はTPPでアメリカに譲歩した以上に牛肉関税引き下げなどを要求されるのではないか、それは日本政府として是非とも避けたい」ということだった。
今回ライトハイザーが日米FTAという言葉を使わなかったということで、その心配が少し和らいだといった報道も見受けられたが、これは誤りである。
WTOでは、各国は他の加盟国を平等に扱わなければならないし、特定の国に対する関税を他の国よりも引き下げてはならないという原則がある。これを最恵国待遇の原則という。
しかし、FTA(自由貿易協定)を結べば、この原則の例外として協定参加国の関税を一般の国に対する関税より引き下げても良いことが認められる。それ以外に、アメリカに対してだけ関税を引き下げることは認められない。つまり、アメリカ産牛肉の関税を通常の38.5%よりも下げようとすると、アメリカは(自由貿易協定であるTPPにアメリカが復帰するか)日米FTAを結ぶしかないのである。
自動車については、トランプ大統領とユンケル欧州委員会委員長の間の合意で、米EU間で関税撤廃交渉を行っている間は高い自動車関税は適用されないことが合意されている。このため、鉄鋼の関税引き上げの場合と同じように、交渉中のEUには高い関税が適用されず、日本に高い関税が適用されてしまう(現在はEUにも高い鉄鋼関税が適用)という心配があった。
12日付朝日新聞は「日本政府関係者は『9月に首脳間で合意し、具体的交渉に入れば、交渉中の関税凍結を勝ち取れる』と期待を寄せる」と報じている。しかし、この日本政府関係者の発言は日米FTA交渉回避という主張と矛盾している。(米EU間で関税撤廃交渉を行い、その成果をWTO加盟国全てに及ぼすという利他的な場合でない限り)米EU相互の間で関税を撤廃しようとすると、それは自由貿易協定交渉を行うことに他ならない。米EUには、中断中のTTIP交渉があり、これを再開することになる。
同じように、日本政府関係者の言う”交渉”も、論理的に言うと日米FTA交渉に他ならない。その場合、日本の工業品の関税は既に撤廃されているものが多く、トランプが重視する”reciprocal”(互恵的な)交渉成果となるためには、牛肉関税を引き下げるしかない。それがTPPでアメリカに譲歩したところで終わる保証は何もない。
アメリカが自動車関税を日本に適用してしまった後でも、日本がこれを撤回しようとすると、農産物等での譲歩を差し出すしかない。高い自動車関税を避けようとすれば、このような内容となる日米FTA交渉に応じるしかないことになる。
今のままでは、牛肉と自動車がバーターになりかねない状況である。
そもそも、なぜこの時期に日米貿易協議が開催されたのだろうか?
防戦する側の日本から協議を申し出ることは考えられない(ただし、日本側がアメリカの意向を”忖度”した可能性はある)。他方で、ライトハイザー以下の通商代表部は、メキシコ等との協議で忙しく、日米貿易協議のための両国政府の事務的な打ち合わせはほとんどできず、議題の設定すらできなかったと報じられている。
それなのに、なぜアメリカは協議しようとしたのだろうか?
二つ目の理由として、対中貿易戦争に対する味方作りである。対中関税引き上げの根拠となった、知的財産権の侵害や投資に際しての技術移転要求などの中国の行為については、アメリカは同じ先進国である日本やEUと共同して行動できる。上に述べたことと関連するが、中国との関係で日本やEUはアメリカの同盟国であることを、アメリカ国民にも示すことができる。
対中関税引き上げという措置については、農業界を中心に反対が強い。しかし、先進技術や知的財産権に関する中国の活動や中国に対する大きな貿易赤字がアメリカ経済を圧迫している、あるいは経済のみならず安全保障面でも脅威になりつつあるという認識は、アメリカ国内で広く共有されている。
2018年7月のギャラップの世論調査では、中国の通商政策が不公正だとする割合は、共和党支持者で71%、民主党支持者で57%と非常に高く、逆に公正だとする割合は、それぞれ21%、38%に過ぎない。
他方で、日本の経済活動が脅威だという意見は少なくなっている。同じくギャラップの世論調査では、日本の通商政策が不公正だとする割合は、共和党支持者で41%、民主党支持者で27%と低く、逆に公正だとする割合は、それぞれ46%、65%に上っている。
アメリカの通商政策において、今や「最大の敵」は中国なのだ。
米国がこの時期に日本との貿易協議を開いた最大の理由は、11月の中間選挙に向けて、選挙民にアピールするものを作りたいというものである。
米EUで合意されたとする、EUのアメリカ産大豆の輸入拡大は、中国のアメリカ産大豆に対する関税引上げによって、EUが輸入してきたブラジル産大豆が中国に仕向けられ、反射的にEUのアメリカ産大豆の輸入が増えていることを記述しただけにすぎない。既に大豆の関税がゼロで国家貿易企業も持たないEUに、意図的、政策的にアメリカ産大豆の輸入を拡大する手段はない。これは一種のフェイクニュースなのだが、トランプは交渉の成果だと農民集会で喧伝している(なお、大豆の農業団体の幹部は、中国市場に替わるような代物ではないと冷淡にコメントしている)
この程度のものでも、トランプは成果だと言ってくれる。アメリカ産農産物のアクセス改善に努める程度の表現でも、トランプは満足するのではないか。大したものでもないことを大したもののように見せることは、一つの外交手腕だろう。
なお、自動車関税引き上げはアメリカの自動車業界にも影響を与えるだけではなく、対中貿易戦争はアメリカの自動車業界に大きな打撃を与えることになる(参照:日米自動車産業の勝敗を決するのは中国市場だ)。大きな被害が生じるという自動車業界の声がトランプに届けば、関税引き上げを諦めるだろうが、そうでなければトランプは中間選挙前に関税引き上げをアピールすることになるだろう。この点は、トランプ次第で、”unpredictable”(予測不可能)である。
日本政府は、牛肉でも車でも受け身の対応である。アメリカの攻勢を防ぐためには、せいぜいLNGや防衛装備品の輸入拡大や知的財産権等についての対中共同行動を高く売りつけるしかない。
しかし、日米FTA交渉に応じたとなれば、農業界は反発する。それは安倍総理の三選に影響する。だから、9月21日の総裁選の前の合意は避けることにしたのだろう。
アメリカの中間選挙を超えて、日本政府がいつまで日米FTAを拒否できるかは分らない。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください