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国連キャリア女性が決断した「介護休職」

学生時代からの夢だった国連職員。世界を奔走する彼女は一人っ子だった

岩崎賢一 朝日新聞社 メディアデザインセンター エディター兼プランナー

 国連職員としてエチオピアで働いていた日本人女性のfecebookに、日本で見慣れた桜の写真がアップされたのは2017年4月のことだった。彼女は学生時代からの夢だった国連機関でキャリアを積み重ねてきたが、任期半ばで離任し、帰国したという。いったい何があったのか――。そこには、日本社会が抱える構造的な問題があった。

エチオピア・ガンベラの南スーダン人難民キャンプ=2015年撮影(箱﨑さん提供)

世界を奔走する彼女は一人っ子だった

 彼女が働いていた国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)といえば、1990年から2000年まで緒方貞子さんがトップを務め、女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが親善大使をしていることでも知られている。世界で7千万人以上の難民、国内避難民などの支援をしている。

 冒頭の日本人女性、箱﨑律香さん(47)は、2001年から、東京、スイス、ケニア、エチオピアでキャリアを積み重ねた。日本のような終身雇用制、年功序列賃金制とは違い、数年単位の任期があるポストが組織内で公募され、実績や面談を経て勝ち取っていかなければならない。

 私は、箱﨑さんが一時帰国した際、意見交換をしたり、国際機関で働きたいと考えている高校生と対話する機会を設けたりしていた。ただ、医療を介護の現場を取材している私は、箱﨑さんがいずれ帰国するのではないかと予感していた。

 彼女が一人っ子だと聞いていたからだ。

エチオピア赴任が転機

ケニア・ダダーブのソマリア難民キャンプ=2011年撮影(箱﨑さん提供)
 2016年8月、通信環境が悪いエチオピアにいる箱﨑さんとSNSがつながった。箱﨑さんの了解を得て一部公開すると、このようなやりとりがあった。

箱﨑さん「真面目に、、、転職活動中です。。。」
私「エチオピアは、任期満了ですか?」
箱﨑さん「いえいえ、まだまだいられます。いたければー」
私「UNHCRから外れて転職ですか?」
箱﨑さん「恐らく。場合によっては日本の民間企業です」
私「お体に気をつけてご活躍下さい」
箱﨑さん「いずれにしても自分の手術で日本に一時期国します。親の介護問題等、国連じゃ厳しいことが多くてー。ましてアフリカですとね」

 このやりとりの5カ月後の2017年1月、箱﨑さんは、エチオピアの任期を1年半縮めて離任し、日本に帰国した。「母親の介護」という理由が、組織に正式に認められたためだ。

「ここ数年は、1年に2回以上、日本に戻ってきていましたが、母の病気の進行や身体の状況をみると、私にとっての3カ月は母の1年以上というような衰えの速さを感じました」

 今、父親は82歳、母親は79歳。

 2011年にケニアから一時帰国した際は、病を抱える母親の負担を考え、両親が住み慣れた地域からそれほど遠くない東京郊外の駅に近いマンションを箱﨑さんが購入し、両親を住まわせた。

「これで10年ぐらいもつかな」

 こう考え、4年半のケニアでの任期を終えた後、2014年に一つ上のポストでエチオピアに赴任した。

 経済成長著しいエチオピアだが、UNHCRの仕事は難民支援。ソマリア、エリトリア、スーダン、南スーダンから流入する難民の支援のため、国境付近の難民キャンプへ出向くことも多い。ケニアでも、南スーダンやソマリアからの難民支援をしていたが、エチオピアで仕事をしていく中で、心境の変化があった。

「この頃からですかね。日本に帰らなくてはいけないかなと思い始めました」

 理由は、ケニアと比べて日本と容易に電話がつながらず、何かあった時に日本に帰国するのにも時間がかかるためだ。「スカイプがあってないような世界」と言うように、テレビ電話を通じて表情を読み取ることも難しい通信環境は、ストレスがかかった。

母は「自分たちの犠牲になることはない」と言うが…

エチオピア・ガンベラで同僚たちと=2015年撮影(箱﨑さん提供)
 帰国については、箱﨑さんは「当然自分以外する人、できる人がいないから。子どもは1人しかいないから」と割り切っている。

 母親は「自分たちのために犠牲になることはない」と言う一方、「近くに居てくれたらいい」とも言い、胸の内は微妙だ。父親も「頼りたい」とは言わなかった。箱﨑さん自身は、「結果としてそう見えるかもしれませんが、犠牲になっているつもりはありません」と言う。

 とはいえ、老老世帯は現実的な問題に数多く直面する。

 加齢による父親の体力と聴覚の低下に加え、その後、母親にがんが見つかった。両親は、インターネットを駆使して病気に関する情報を検索して調べることが難しい。医療機関での、治療の説明や同意書の書名・保証人の手続きといった煩雑な手続きもある。自宅での生活をしやすくするための便利グッズや介護グッズの購入……。

 老老世帯の2人だけでは解決しがたい問題が潜み、それは国内外や男女を問わず、両親と離れて暮らす人たちに共通した話題でもある。

同じような悩みを抱えた人も

 箱﨑さんは今、UNHCRを休職し、正式に許可を得て、日本国内にある国際機関の現地スタッフとして有期雇用で働いている。UNHCRのような国際機関の場合、雇用形態、業種、職種によって、休職中の就労許可がでることがある。幸い収入ゼロは避けられた。

ケニア時代の箱﨑律香さん=2011年撮影(箱崎さん提供)
 箱﨑さんによると、国連など国際機関で働く30代後半から40代の女性にとって、同じような悩みを抱える人は多いのではないかという。両親が介護施設や医療機関を利用しているため、看取った後に赴任先にすぐ戻る人もいるが、義父母も含め両親のサポートのために休職する人や離職する人もいるという。

 資産があれば話は別かもしれないが、日本では今、在宅介護や家での看取りが推進され、公的介護保険は、財政健全化の観点からサービスの利用が抑制され気味で、家族の負担は増している。悩ましい。

 少子高齢化の影響もあり、国内から海外へ企業や若い人たちが目を向けている。しかし、チャンスをつかんでも、箱﨑さんのように一人っ子は、男女を問わずいずれ両親の介護に悩み、身動きできない状況に追い込まれる可能性が高い。国内でも「介護離職」が話題になっているが、これはいわば「介護帰国」だ。

 例えば、予約診療ができない医療機関は、午前7時前に箱﨑さんが並び、その後、父親が付き添って母親が受診に来る。診察と医師の話を聞いてから、出社だ。予約がある病院でも、術後の診察に満員電車では通えないため、通院の付き添いで休みを取らざるを得ないことも多い。

 箱﨑さんは「今の職場では事情を説明しているので、多少配慮をしてもらっています。そのおかげで、何とかやっていると思います」と感謝している。

 もちろん、東京を中心に大都市では今、看護師らが付き添う有料の保険外サービスもある。しかし、それは負担できる財力があってこその話だ。

原点は高校時代の留学で出会ったインドシナ難民

スイス・ジュネーブにある国連欧州本部前で=2009年撮影(箱﨑さん提供)
「日本は、海外で働いていた人たちがそのキャリアをいかしていくような職種は限られています。国際機関の日本人ポストも限られています」

 エチオピアに赴任していた時、視察に訪れた国会議員にこのような趣旨の話をしたこともあった。

 休職といってもUNHCRに戻る権利を残しているだけで、仮に戻るとしてもポストが保障されているわけではない。

 国連職員といっても、簡単になれるわけではない。日本の大学を出た後、大手金融機関や外資系金融機関で働き、その後、カナダの大学院に留学し、国際関係を学んだ。働きながらためたお金とカナダ政府の奨学金がなければ実現しなかった。卒業後、いったん帰国し、日本企業で働いている時、UNHCRの職員に空きが出て採用された。

 高校時代に1年間、アメリカのコネティカット州の高校に留学した。東欧からのユダヤ教徒の移民が多い地域で、インドシナ難民の生徒も多くいた。難民の友だちの家を訪ね、交流を深めた。

「これがUNHCRの仕事につながっています」

 日本では女子校に通っていたが、女性の自立や男性への競争心を意識していたわけではなく、もう一度、海外に行って学んでみたいという知的好奇心だけだった。まだ若かったこともあり、両親を日本に置いていくことも、意識していなかった。

「キャリアより自分の終活」

 箱﨑さんに、これからのキャリアについてどう考えているのか、尋ねてみた。すると、予想もしない答えが返ってきた。

「キャリアより、早く自分の終活をしなくちゃ」

 箱﨑さんがカナダに留学中、両親はお墓を購入していた。

「両親をこのお墓に入れてあげることはできても、私は一人なので自分で入ることができない」

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