TPPが食品の安全性を奪うというのはまやかしだ。
2018年11月05日
数年前、TPP交渉に参加するかどうかを巡って国論は二分された。反対論のほとんどは、TPPを主導するアメリカによって、食品の安全性や医療などの制度や農業・公共事業など日本が守ってきたものがずたずたに改悪されてしまうというものだった。そしてアメリカに脅威を感じる多くの人がこれを信じた。
TPP協定が合意された今では、これらのほとんどの主張が根拠のない”TPPお化け”だったことが明らかになっている。
交渉中、政府は守秘義務があるため「おそらくそういうことにはならないはずだ」としか反論できなかったものの、協定内容が確定し公表された後は自信を持ってこれらの主張に反論している。通商問題や制度の専門家でもなく、根拠のないフェイクな主張を展開していた評論家や大学教授の人たちは、今やどこかに隠れてしまった。
何よりも、彼らが恐れたアメリカが、TPPによってアメリカの雇用が奪われることを恐れて、TPPから脱退してしまった。アメリカが”TPPや日本が怖い”病に罹ってしまったのだ。
遺伝子組み換え食品の規制も、そのようなものの一つだった。
アメリカによって、日本の規制が変更され、安全でないものを食べさせられてしまう主張が、評論家や大学教授の人たちによって行われ、消費者団体の人たちも、これを信じた。
遺伝子組み換え食品の規制を巡ってアメリカと交渉したこともある私は、そんなことにはならないと主張したが、効果はなかった。なぜ多くの人が専門家でもない人たちのフェイクニュースを信じるのだろうかと、虚しささえ感じた。
少し長くなるが、TPP交渉に参加するかどうかを巡って意見が対立していたときに、私が一般向けの読者に書いた文章を紹介したい(山下一仁「TPPが日本農業を強くする」2016年日本経済新聞出版社234~237ページ(初出は2012年)を若干加筆)。
「アメリカは怖い」という病気について、述べます。このような主張を行う人に、過去多国間の通商交渉に関わった経験を持つ人はいません。(中略)通商交渉の矢面に立ってきた農林水産省や経済産業省が行った交渉でも、日本は負けているわけではありません。むしろ、意気高に主張を繰り返すアメリカに対し、苦しみながらも、かれらの面子を立てつつ、日本の利益を確保するという、一段高い戦術を持って対応してきたというのが、私の感想です。(中略)
遺伝子組み換え食品の表示問題に関する2002年APECの貿易大臣会合での私の経験を述べたいと思います。
TPP交渉で遺伝子組み換え食品についての規制が緩和・撤廃されるのではないかという主張があります。まず、どの国も安全性が確認された遺伝子組み換え食品しか流通を認めていません。各国で規制が異なるのは、安全だとして流通を認めた遺伝子組み換え食品についても表示の義務付けを要求するかどうかです(注:まず、この重要な点が理解されていなかった)。
アメリカはそのような表示は全く不要であるという立場です。日本は、豆腐など遺伝子組み換え大豆のDNAやたんぱく質が食品中に残存する製品についてのみ、遺伝子組み換え農産物を使用したという表示を義務付けています(注:重量比で5%以下であれば表示義務はない)。これに対してEUでは、豆腐などの製品だけでなく、しょう油などのDNAなどが残存しない製品についても、1%でも遺伝子組み換え農産物が含まれていれば、遺伝子組み換え食品だという表示を要求しています(注:0.9%以下であれば表示義務はない)。これは製品を調べただけでは表示が正しいかどうか検証できないので、遺伝子組み換え農産物とそうでない農産物について、すべての流通段階で分別、区分けすることを義務づけるしかありません。アメリカがEUの表示規制に反対するのは、このために膨大なコストがかかり、安全性が確認された遺伝子組み換え食品の流通が事実上禁止されてしまうからです。
これは(WHOとFAOの合同の)コーデックス委員会で議論されましたが、各国の立場が異なり、国際的な基準を合意できませんでした。2002年APECの貿易大臣会合でアメリカは、EUの規制はおかしいとAPECの全貿易大臣からEUに申し入れをしようと提案しました。当時交渉担当者だった私は、日本の規制に影響が出かねないと判断して、同様な制度を持つオーストラリア、ニュージーランドにも働きかけて、この試みを潰しました。TPP交渉で、日本の規制が見直されることは考えられません(注:遺伝子組み換え食品を使用していないことを言明するファストフードのチェーン店が現れたり、2016年バーモント州議会が遺伝子組み換え食品の表示を義務付ける法律を成立させるなど、アメリカでも遺伝子組み換え食品に対する警戒が高まっている)。
これにかぎらず、TPPに反対する人たちの中には、医療や地方の公共事業などで、一方的にアメリカの制度や要求が押しつけられるという主張が目立ちます。しかし、これまでの日米2国間の協議と異なり、TPP交渉のような多国間の交渉では、それ以外の国と問題ごとに連携することができますし、協定とは双方が共通の義務を負うので自らが要求したことは自らの義務として跳ね返ってきますから、いくらアメリカでも自分の主張を押しつけることはできないのです。(中略)
「アメリカが怖い」病の主張者は、外にでるとアメリカが怖いので、日本に引きこもるべきだというのでしょうか。もっと、日本人は自らの力に自信を持ってもよいのではないでしょうか。
つまり、当時、遺伝子組み換え食品の表示については、実質的には従来の食品と安全性や機能の面で同じである(”実質的同等性”の主張)以上一切表示義務を認めないアメリカと、遺伝子組み換え農産物から作られる食品には(1%でも遺伝子組み換え農産物を含んでいれば)全て表示義務を要求するEUとが、両極端にあった。
日本はその中間で、大豆を例にとると、改変されたDNAやタンパク質が検出できる納豆や豆腐には表示義務を課し、加工のレベルが高度なため、それらが検出できない油やしょう油には表示義務を課さないという規制をかけてきたのである(なお、混入率5%以下のものについては表示義務を課してこなかったが、今年検出される以上(つまりごくわずかでも混入していれば)全て表示義務を課すという方向に厳格化した。表示義務を課される食品の範囲を拡大し、ある部分でEUより規制を強化した)。
しかし、アメリカは2016年、バーモント州など表示を求める草の根的な運動を反映し、遺伝子組み換え食品について表示を求める法律(通称”Bioengineered Food Disclosure Law”)を制定し、同年7月オバマ大統領が署名した。この法律に基づき、アメリカ農務省が現在、どのような食品に表示義務を要求するかについて、14000も寄せられたパブリック・コメントを踏まえながら、検討中であり、農務省はできれば12月1日には決定したいという希望を述べている。
まず、注目すべき点は、法律が遺伝子組み換え(GMO)という言葉ではなく、バイオ工学で作られた食品(”Bioengineered Food”)という、やや射程範囲が広いと思われる言葉を使っていることである。その定義として「1.試験管内で組み替えられたDNA技術を使って改変された遺伝的な物質を含み、かつ、2.その改変が伝統的な育種によるものではなくまたは自然に存在しないもの」とされている。つまり、従来の遺伝子組み換え農産物・食品だけでなく、ゲノム編集されたものまで形式的には対象となる可能性があるのである。”改変された遺伝的な物質”があるかどうかが、カギとなる。
そして、表示義務が課されないものとして、現在農務省が提案しているオプションは、次の3つである。
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