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拡大外国人材の受け入れ・共生に関する関係閣僚会議で発言する菅義偉官房長官(左から2人目)=2018年10月12日、首相官邸

 日本国内では、外国人労働者の受け入れに関する議論が盛んだ。人によって議論の受け取り方、考え方は様々だろうが、政府答弁は少し現実離れしたかのようにも聞こえる。日本を離れて7年。人種多様なシンガポールでの生活から学んだ多様性のメリットについて、子育てを通じて得た視点をご紹介したい。

個の違いが大きい集団の方が人は楽に生きられる

 個人の多様さをシンガポールで最初に実感したのは、公共交通機関での人々の「勝手気まま」さだった。携帯電話は使い放題、イヤホンなしで音楽を聴いている人もいるし、大声ではないが鼻歌を歌う人も珍しくない。車内では降りる人に道を譲らないとか、ホームでは電車に乗る時に並ばない、降りる人を待って乗る習慣もあまりない(バンコクでは並ぶ)など、来た当初はイライラすることが少なくなかった。男女問わず、日本人からすれば目が点になるような服装は、露出度や色合いのマッチングなどあらゆる点で珍しくないし(失礼!)、しかし、周りからそれを刺すような視線で見る人もいない。大阪出身の妻は「大阪では珍しくない」というが、東京育ちの私には異質な光景だった。

 肌の色も言葉も多様。ほっぺたに地元の化粧品「タナカー」をつけていればミャンマー人か、とか、ヒジャブをかぶっていればイスラムの人か、というくらいの区別はつく。何語を喋っているのか分からないと思っていると、「あれ英語じゃん」と中学生の娘に言われ、地元型になった英語(シングリッシュやインディッシュ)だと教えられる。

 人々の細かい仕草をみていると、日本人ほど周囲の他人を気にしていないことが分かる。個人としての違いが大きいので「自分は自分」の感性が優先されやすく、また「違い」を否定的に捉えることも少なくなるのだろう、と解釈する。

 その恩恵を自分も受けていることは、時折日本に帰国すると身にしみて分かる。大混雑する電車・バスに漂う無言の圧力に耐えられなくなるのだ。そんな時にふと思うのは、単一性から来る社会の抑圧感、同一性を強要する空気が、極端なハレ(例えば、ハロウィーンに見る渋谷の乱痴気騒ぎ)現象を生んでいるのではないか、というようなことだ。シンガポールといえば統制社会の面もあり、両手を上げて賛同するものでもないが、日本のような同質性社会で暮らすよりも日常生活は楽だと感じる。


筆者

佐藤剛己

佐藤剛己(さとう・つよき) ハミングバード・アドバイザリーズ(Hummingbird Advisories)CEO

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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