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江戸時代という幻景

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 「江戸時代という幻景」(渡辺京二著・2004年)は1998年に名著「逝きし世の面影」を書いた渡辺京二のいわば補足的続編である。前著と同様、渡辺は「江戸時代の生の空間と人びとの存在様式が近代とは全く異質で2度と引き返せない滅び去った世界」であり、「(明治)維新以降、われわれが意識して滅ぼしたのである」としている。

 たしかに、「尊皇壌夷」を掲げ、明治維新の中核となった薩摩と長州は「近代化」を旗印に江戸時代を否定し、中央集権下での「富国強兵」を推し進めた。しかし、権力を握ると同時に、彼等は「壌夷」を破棄し、江戸幕府が老中阿部正弘以来進めてきた開国政策に転じたのだった。維新後、西郷隆盛は「壌夷は幕府を倒すための口実にすぎなかった」と述べている。

 黒船来航以来、壌夷はある種のポピュリズムとして日本中に吹き荒れたのだ。時の若き孝明天皇も壌夷論者であったので、まさに「尊皇壌夷」が時代の流れとなっていったのだった。阿部正弘以来、堀田正睦・井伊直弼と開国政策を進めてきた江戸幕府も「戊午の密勅」(孝明天皇が水戸藩に下賜した「壌夷」推進の命令)以来高まってきた壌夷論に屈し、1862年8月16日(文永2年)には翌1863年5月10日を壌夷決行の日としてしまったのだ。

 そして、尊皇壌夷の流れの中心だった薩摩と長州は外国との壌夷戦争に踏み切ったのだった(1863年8月15日~17日の薩英戦争・1863年~64年の下関戦争)。しかし、薩摩も長州も惨敗し、壌夷政策を転換せざるをえなくなったのだ。

旧グラバー住宅には多くの観光客が訪れる=2015年7月、長崎市

留学の手助けをしたグラバー

 開国政策に踏み切った薩摩と長州が頼ったのはT・B・グラバーだった。グラバーはスコットランドの港町アバティーンの北の小漁村フレーザーバラで生まれ、兄と2人で1859年日本に入り、長崎の出島に居を構えた。グラバー兄弟は日本茶の輸出で成功し、さらに、幕末の混乱のなかで、長州藩・薩摩藩との関係を深め、鉄砲・弾薬・艦船等を大量に売りさばいたのだ。グラバーは乱世の到来を見越して社員を上海などに派遣して、武器弾薬を買い集め、艦船も本国から取り寄せたのだった。いわば、「死の商人」だったのだが、それだけではなく、長州や薩摩の優秀な若者たちの留学の手助けをしたのだ。

 長州藩からは「長州ファイブ」と呼ばれた伊藤俊輔(博文)・井上聞多(馨)・山尾庸三・野村弥吉(井上勝)・遠藤謹助の5人がグラバーの手助けで密出国しロンドンに向かった。また、薩摩藩も五代才助(友厚)の働きかけで藩としての留学を認め、五代才助・松木弘安(寺島宗則)を責任者として15人をイギリスに送ったのだった。留学生の中には後の文部大臣森有礼も含まれていた。伊藤・井上をはじめ、明治維新後の日本のリーダー達が留学生の中から輩出したのだ。

武器取引の裏に坂本龍馬

桂浜に立つ坂本龍馬像=高知市
 グラバーが薩摩や長州と巨大な武器取引ができた裏には坂本龍馬がいた。グラバーはスコットランド人、妻が日本人だったとはいえ彼の人脈だけではこれだけの取引はできなかったろう。当時龍馬は亀山社中をつくっていた(1865年)。亀山社中のバックは薩摩藩で日本初の総合商社等と言われているが、亀山社中の主たる業務は
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